百合とBLのクィアベイティング性について(その1-②)【配信再録】

 そういう風なことを踏まえるとちょっと面白いのと怖いのとのの両方両面があって。ずっと動きを追っているのが二丁目の元々レズバーだった「Ancor(アンカー)」。百合ブックカフェみたいな感じに変わって営業するようになったんです。「百合の聖地」とまでは言わないんですけどなんか結構界隈で賑わってて……。

 ちょっとあのいつの間にか一枠終わってたので。えーと今15人。結構今日来てんね。もう一枠行こうと思うんですけど。もう本当うちさ、こういう誰も得しない話題が多いので。お茶とかも来ないしね。えっと、どこまで行ったっけなんか……。

 界隈で位置が危ういなと思ってて。あそこをやってるのってagit系列で。二丁目に「百合の小径」とか、「Lロード」とか、くそダサい名前が付いている小路があるじゃないですか。あそこのちょっと南からの入り口の左側に「agit」ってあって。けっこう前からあるお店。あの系列で「艶櫻」とか、Aの頭文字付いてるレズビアン系のお店ってだいたいあそこ系列なんです。なので「Ancor(アンカー)」もAなんですよ。で、そういうところがあるから、「バ美肉寄り百合」とかも(当事者が)許容してるみたいな風に取られるのがちょっと怖いなっていう。

 さんざん「バ美肉寄り」(への悪口)言ったけど、当事者が当事者のために描けばいいってもんでもなくて。

 私が結構好きなマンガで森永みるく、さんってマンガ家さんが描いた。「百合姉妹」の頃の「くちびるためいきさくらいろ」とかね。その後「ガールフレンズ」とか別媒体で描かれて。名作描かれたんです。(作者は)めっちゃノンケなんですよ。めっちゃノンケのお姉さんなんですよ。でもね、そういう人もちゃんとね。ちゃんとまともに、まともって言ったら言葉は変なんですけど。目配りしてキャラクターを掘り下げて書くと、別にノンケだろうと関係なくて。当事者だからちゃんと書けるってわけじゃない。やっぱりこれは作家さんの技量なんだなって。(注:リアルタイムの雑誌で読んだので、ものすごく過大評価しているかもしれません)

 別にLのためのLによる表現ばかりが良いものでは決してない。というのはワタシの揺るがぬ意見ですね。

 多かれ少なかれ「百合」って女性同性愛表象をどうしても消費しちゃってるんですよ。それはどういう形で消費してるのか、誰を対象にして消費してるのか、っていうことで幅があって。そして読者それぞれに受け取り方が変わってくるんじゃないかな、と思ってます。

 私はわりとさっき言ったLのための表現に振っているものを高く評価しがちなんですけど。Hかどうかよりも。まあ、こっち(H)は最近そこまで興味ないんですけど。まあ……、あのー……読んでますよね。昔ね「百合姫ワイルドローズ」っていう別冊があって。それはエッチだけ、短編だけ、で集めてる、っていうのがあったんです。別冊です。それを「資料です!(キリッ)」と言いつつ毎号買ってました。今も本棚にあります。(注:数年分の「百合姫」は研究者に譲ったのに)

 で、話は戻るんですけど。「ファンタジーと現実を混同するな!」というわりに混同する感じの消費者、コンシューマーは当然いるんです。けれど混同するも何も百合という表現の歴史を辿っていくと中興の祖の「マリア様がみてる」あるわけですよ。で、さらに源流をたどっていくと吉屋信子さん。吉野信子大先生ですよ。

 パートナーと養子縁組したからね。もうガチレズですよ。(注:上記の研究者いわく「同性婚したい」と手紙に書いて、相手に「そういう目立つのはちょっと」とかわされている、とのこと)遺族によってきわどい手紙は処分されたのではといわれてますが。愛好者には「そもそも百合の祖はガチでした」っていうことを私は声を大にして伝えたいですね。

 まあ、ここで百合の話はひと段落、なんですけど。(配信の)タイトルにも書いた。あのBLの方の話。

 これ構造が百合と非対称なんですよ。BLって、その起こりからして百合と違っていて「LのLによるLのための表現」、「LLL」ではなく、の「GGG」ゲイのための表現を起源にしてはないですよね。って昔は「やおい」とか言ってた訳ですけど。そうとう大きく違うところです。

(吉屋信子についてのコメントが来て)あ、こんばんは少女小説の大家です。大家ですよ。うちにも「屋根裏の二処女」がありますからね。ちょっと「花物語」は手放しちゃったんですけど。

 で、BLって言うか「やおい」ってイチからGGGじゃないんですよね。やっぱり女性がその何でしょう……。男性と女性だと、現代的なパワーバランスがあるので。(女性では)実現しえないものを男性同性愛の表象を使って表現していく……みたいなのがあったと思います。私の本棚に一冊だけ、昔の「JUNE」があるんですよ。昔の「JUNE」ってレンジが広いですよね。クソみたいな小説もあれば、ロンドンのゲイライツの活動家が出てくる小説もあったりして。なんか昔の「JUNE」は懐広かった、みたいな感じですね。だけど、これもGGGからじゃなくて、(非当事者が)その表象を、これも当然、「百合」と同じく消費してるんです。

 元々、当事者が界隈にいなかったのもあって、もしかしたらちょっといたのかもしれないですけど。あんまり認識されなかったのもあって、性的消費をしてるっていう意識がちょっと低いんですよね。その低さってなんでしょう。

 これは私の私見なんですけど、糊塗するかのようにきれいに塗って、「私たちはそんなHなだけじゃない、歪んだ形で一方的消費してる訳ではないですよ。ちゃんとした作品(鑑賞)ですよ」みたいな。取り上げられ時にいわゆるポリティカリーコレクト的に良い(とされる作品)ばかりが取り上げられるきらいがあって。それが昔のよしながふみの作品であったり、雲田はるこの作品であったり。まああれ(よしながふみの「ジェラールとジャック」)も(未成年の)男娼を買うところから話が始まってるので、本当にポリティカリーコレクトかって言ったら……。最終的には二人の合意、お稚児さんとお客ではなく対等な立場で、と話は終わるんです。

 でも、「この界隈はそんな下品なものじゃないですよ。こんないいものもありますよ」っていうふうに提起されるものが(優等生な)まあそういうものばっかりであって。

 実際、「試し読み無料!」みたいなウェブで売れてる漫画って全然違うじゃないですか。もう、酔っぱらってるところに付け込んでほぼ強姦とかなんか。あと百合では少ないけれども「オメガバース」とか「サブ/ドム」とかの話がすごく多いなっていう感じがして。それは私からしたら(同性愛表象で異性愛をなぞる?のは)どうなんだろう(グロい)って思うんですよね。

 で、そういうふうな……ちょっと倫理的にまずいんじゃないの?っていうBLについて、誰か警鐘を鳴らしたりとかする人っているのかなって?と思うんですけど。界隈に嫌われるだろうからまあ言わないのかなと。

 あと何でしょう。百合でね。あんまりひどいことを描かれたら、私たち、「私たち」って急にね、主語が大きくなりましたけど。わりとレズビアン傷つくじゃないですか。

 で、百合ファンダムでは創作してる人、消費する人、実は視野の端にね、レズビアンって目に映ってると思うんですよ。だから定期的に「百合とレズは違う」みたいな論争が起こって。「あの、それもう二十年前から、その前からやってない?ちょっと勘弁してくれる?」みたいなのが繰り返されるわけで

 でも、BLだとそのゲイの姿ってほぼ(消費の視界に)ないな、って。

 ゲイでBLに言及する人って基本的になんか肯定してる人がなぜか多くて。っていうのも多分当事者ゲイからBLが視野に入る人って好きで視野に入れてる人が多いんだと思います。なので、あの界隈まあ良くない言葉ですけど「腐女子」に嫌われたくない。一緒に楽しく消費したいっていう人が多いからそうなってるんじゃないかなって。私はちょっと思ってるんです。

 それと、やっぱり(BLを)作ってるのは何といっても界隈女性ばっかりなので、ゲイからしたら、なんか変なこと書かれても、あんまり痛くも痒くもない程度ではないかと思うんです。

 レズビアンが「なんか、こんなこと書かれた最悪!」っていうほどはダメージないのかもしれないですね。っていうのはもうゲイの創作物っていうのは、田亀源五郎先生とか児雷也先生とかね。野原くろ先生とかいて(GGGが)ジャンルとして成立しているからだと思うんです。

 で、私がちょっと思うのが百合もBLもなんですけど。これはねあくまで私の考えで、そうじゃなきゃいけないって話じゃないですけど。(注:ここから「にじり寄る」話です)

 映画に「ベクデルテスト」ってあるじゃないですか。

 映画とかで女性がわりと(キャラクターとして)ひどい扱いを受けているっていうことが多くて。で、ちゃんとジェンダー不均衡について目配りできるかどうか、っていうのをいくつかイエスノーで答えていって。「この作品ベクテルテストの要件満たしてるね」とか「これは全然駄目だ」というようなテストがあるんですよね。

 百合とかBLとかでも、そういうベクデルテスト的なもの。例えば「その権力/社会的な背景を利用しているか否か」。さっき言った上司と部下とか先生と生徒みたいな。そういう権力の勾配を使って性的な関係を結んだり、結ぼうとしたり、強要したりしてるかどうかとか。あとは「未成年を過剰に性的に描写していないか」っていう風な。

 いくつかそういうベクデルテスト的なものがあってもいいんじゃないかなって思います。

 もちろんそのベクデルテスト的なものをパスしてないといけないってわけじゃもちろんないです。ただ創作する人、鑑賞や消費する人とかに少しそういう意識があった方がいいんじゃないかなって。

 ただ、すこし私が難しいなって思うのが、その「未成年の性的な描写がダメ」って、まあダメなんですけど。「百合」って基本的に「少女」、未成年をキャラクターとして動かすことがすごく多いですよね。大体、中高生が主人公。成人同士も最近結構多いですけど。

 そういう風な傾向があるので、未成年を性的に描いているかどうかっていう話をすると。それを厳格に運用したりとしたら、なんか「百合」というジャンルの8割が消えてしまうのではないだろうかという怖さはあります。

元々のベクデルテストっていうのは……。

(以下、ウィキペディア読み上げ

ベクデル・テスト(英: Bechdel Test)とは、ジェンダーバイアス測定のために用いられるテストである。テストではあるフィクションの作品に、最低でも2人の女性が登場するか、女性同士の会話はあるか、その会話の中で男性に関する話題以外が出てくるかが問われる。2人の女性に名前がついていることも時としてテストの条件に付加される。

もともとは映画を評価するために用いられ、現在ではあらゆるフィクションにおいて用いられている。現代の映画の半分程度はこのテストをパスしないと言われており、これは映画産業で働く女性の比率が低いことや、業界人の観客の好みに対する想定ゆえであるとされている。批評家はこのテストは総体として考えた場合は有益だと指摘している。個別の作品については、性差別と無関係な理由でテストをパスしたりしなかったりし得る。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%82%AF%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88)

 っていうことなんですけど。百合やBLの倫理的なテストっていうのも何でしょうか。言葉ばかりだとか「アンチ表現の自由派」みたいな受け止め方をおそらくされるんですけれども。そういう視点があってもいいんじゃないかな?っていう私の提言でした。

 そのベクデルテスト的なものをパスしなきゃいけないってわけじゃないんですよ。ただこういう視点もあるよっていうのがコミュニティ……ファンダムに導入されることは決して悪いことじゃない。だから、さっき言った「総体として有益」というやつ、になるんじゃないかなと私は勝手に思ってます。これはね、実際に創作する人に聞いてみないと分からないですけど。

 あとはそういう視点が導入されたときに、無心に「ユリセ」って言われるような性的描写を楽しんでいた人にはちょっと受け入れがたい面もあるかもしれないですね。何ていうんでしょうか、頭の中にワーニングが出ちゃうような。ただ、ゲイコミックで良くある「これを実際に実践するとHIV感染の危険性があります」という但し書きみたいなもんで。ちょっと最初は引っかかると思うんです。けど慣れるんじゃないかって。だいたい読み飛ばすでしょ、見飛ばすでしょ、そんなもん。でもなんかそういう小さいストッパーでもいいんじゃないかな、っていうのが、もう、しつこいけど私の意見です。

 ちょっと次回はあの再開した筋トレの話でもしてね。ベクデルテスト的なものの具体的な話はいつになるかはちょっと分からないかもしれないです。友達にも聞いてみたいです。

 長々と。今日なんか人多かったね。67人だって。今は18人もいらっしゃいますけど。本当に長々とありがとうございました。それじゃまた、来週金曜日。またtwitterから告知しますので。また、お会いいたしましょう。じゃあ、皆さま安らかな夜を。お休みなさいませ。

→1時間半話したうちの後半。 2022.3.21配信

 あまりにも本筋から外れた脱線の省略、話を追うのに必要な補足、話の筋の錯綜の編集、冗漫な繰り返しの削除など、手を加えております。

追記:さすがにツイッターで「3P痴漢百合(女子高生)」が流れてきたときはびっくりしました。