百合とBLのクィアベイティング性について(その1-②)【配信再録】

 そういう風なことを踏まえるとちょっと面白いのと怖いのとのの両方両面があって。ずっと動きを追っているのが二丁目の元々レズバーだった「Ancor(アンカー)」。百合ブックカフェみたいな感じに変わって営業するようになったんです。「百合の聖地」とまでは言わないんですけどなんか結構界隈で賑わってて……。

 ちょっとあのいつの間にか一枠終わってたので。えーと今15人。結構今日来てんね。もう一枠行こうと思うんですけど。もう本当うちさ、こういう誰も得しない話題が多いので。お茶とかも来ないしね。えっと、どこまで行ったっけなんか……。

 界隈で位置が危ういなと思ってて。あそこをやってるのってagit系列で。二丁目に「百合の小径」とか、「Lロード」とか、くそダサい名前が付いている小路があるじゃないですか。あそこのちょっと南からの入り口の左側に「agit」ってあって。けっこう前からあるお店。あの系列で「艶櫻」とか、Aの頭文字付いてるレズビアン系のお店ってだいたいあそこ系列なんです。なので「Ancor(アンカー)」もAなんですよ。で、そういうところがあるから、「バ美肉寄り百合」とかも(当事者が)許容してるみたいな風に取られるのがちょっと怖いなっていう。

 さんざん「バ美肉寄り」(への悪口)言ったけど、当事者が当事者のために描けばいいってもんでもなくて。

 私が結構好きなマンガで森永みるく、さんってマンガ家さんが描いた。「百合姉妹」の頃の「くちびるためいきさくらいろ」とかね。その後「ガールフレンズ」とか別媒体で描かれて。名作描かれたんです。(作者は)めっちゃノンケなんですよ。めっちゃノンケのお姉さんなんですよ。でもね、そういう人もちゃんとね。ちゃんとまともに、まともって言ったら言葉は変なんですけど。目配りしてキャラクターを掘り下げて書くと、別にノンケだろうと関係なくて。当事者だからちゃんと書けるってわけじゃない。やっぱりこれは作家さんの技量なんだなって。(注:リアルタイムの雑誌で読んだので、ものすごく過大評価しているかもしれません)

 別にLのためのLによる表現ばかりが良いものでは決してない。というのはワタシの揺るがぬ意見ですね。

 多かれ少なかれ「百合」って女性同性愛表象をどうしても消費しちゃってるんですよ。それはどういう形で消費してるのか、誰を対象にして消費してるのか、っていうことで幅があって。そして読者それぞれに受け取り方が変わってくるんじゃないかな、と思ってます。

 私はわりとさっき言ったLのための表現に振っているものを高く評価しがちなんですけど。Hかどうかよりも。まあ、こっち(H)は最近そこまで興味ないんですけど。まあ……、あのー……読んでますよね。昔ね「百合姫ワイルドローズ」っていう別冊があって。それはエッチだけ、短編だけ、で集めてる、っていうのがあったんです。別冊です。それを「資料です!(キリッ)」と言いつつ毎号買ってました。今も本棚にあります。(注:数年分の「百合姫」は研究者に譲ったのに)

 で、話は戻るんですけど。「ファンタジーと現実を混同するな!」というわりに混同する感じの消費者、コンシューマーは当然いるんです。けれど混同するも何も百合という表現の歴史を辿っていくと中興の祖の「マリア様がみてる」あるわけですよ。で、さらに源流をたどっていくと吉屋信子さん。吉野信子大先生ですよ。

 パートナーと養子縁組したからね。もうガチレズですよ。(注:上記の研究者いわく「同性婚したい」と手紙に書いて、相手に「そういう目立つのはちょっと」とかわされている、とのこと)遺族によってきわどい手紙は処分されたのではといわれてますが。愛好者には「そもそも百合の祖はガチでした」っていうことを私は声を大にして伝えたいですね。

 まあ、ここで百合の話はひと段落、なんですけど。(配信の)タイトルにも書いた。あのBLの方の話。

 これ構造が百合と非対称なんですよ。BLって、その起こりからして百合と違っていて「LのLによるLのための表現」、「LLL」ではなく、の「GGG」ゲイのための表現を起源にしてはないですよね。って昔は「やおい」とか言ってた訳ですけど。そうとう大きく違うところです。

(吉屋信子についてのコメントが来て)あ、こんばんは少女小説の大家です。大家ですよ。うちにも「屋根裏の二処女」がありますからね。ちょっと「花物語」は手放しちゃったんですけど。

 で、BLって言うか「やおい」ってイチからGGGじゃないんですよね。やっぱり女性がその何でしょう……。男性と女性だと、現代的なパワーバランスがあるので。(女性では)実現しえないものを男性同性愛の表象を使って表現していく……みたいなのがあったと思います。私の本棚に一冊だけ、昔の「JUNE」があるんですよ。昔の「JUNE」ってレンジが広いですよね。クソみたいな小説もあれば、ロンドンのゲイライツの活動家が出てくる小説もあったりして。なんか昔の「JUNE」は懐広かった、みたいな感じですね。だけど、これもGGGからじゃなくて、(非当事者が)その表象を、これも当然、「百合」と同じく消費してるんです。

 元々、当事者が界隈にいなかったのもあって、もしかしたらちょっといたのかもしれないですけど。あんまり認識されなかったのもあって、性的消費をしてるっていう意識がちょっと低いんですよね。その低さってなんでしょう。

 これは私の私見なんですけど、糊塗するかのようにきれいに塗って、「私たちはそんなHなだけじゃない、歪んだ形で一方的消費してる訳ではないですよ。ちゃんとした作品(鑑賞)ですよ」みたいな。取り上げられ時にいわゆるポリティカリーコレクト的に良い(とされる作品)ばかりが取り上げられるきらいがあって。それが昔のよしながふみの作品であったり、雲田はるこの作品であったり。まああれ(よしながふみの「ジェラールとジャック」)も(未成年の)男娼を買うところから話が始まってるので、本当にポリティカリーコレクトかって言ったら……。最終的には二人の合意、お稚児さんとお客ではなく対等な立場で、と話は終わるんです。

 でも、「この界隈はそんな下品なものじゃないですよ。こんないいものもありますよ」っていうふうに提起されるものが(優等生な)まあそういうものばっかりであって。

 実際、「試し読み無料!」みたいなウェブで売れてる漫画って全然違うじゃないですか。もう、酔っぱらってるところに付け込んでほぼ強姦とかなんか。あと百合では少ないけれども「オメガバース」とか「サブ/ドム」とかの話がすごく多いなっていう感じがして。それは私からしたら(同性愛表象で異性愛をなぞる?のは)どうなんだろう(グロい)って思うんですよね。

 で、そういうふうな……ちょっと倫理的にまずいんじゃないの?っていうBLについて、誰か警鐘を鳴らしたりとかする人っているのかなって?と思うんですけど。界隈に嫌われるだろうからまあ言わないのかなと。

 あと何でしょう。百合でね。あんまりひどいことを描かれたら、私たち、「私たち」って急にね、主語が大きくなりましたけど。わりとレズビアン傷つくじゃないですか。

 で、百合ファンダムでは創作してる人、消費する人、実は視野の端にね、レズビアンって目に映ってると思うんですよ。だから定期的に「百合とレズは違う」みたいな論争が起こって。「あの、それもう二十年前から、その前からやってない?ちょっと勘弁してくれる?」みたいなのが繰り返されるわけで

 でも、BLだとそのゲイの姿ってほぼ(消費の視界に)ないな、って。

 ゲイでBLに言及する人って基本的になんか肯定してる人がなぜか多くて。っていうのも多分当事者ゲイからBLが視野に入る人って好きで視野に入れてる人が多いんだと思います。なので、あの界隈まあ良くない言葉ですけど「腐女子」に嫌われたくない。一緒に楽しく消費したいっていう人が多いからそうなってるんじゃないかなって。私はちょっと思ってるんです。

 それと、やっぱり(BLを)作ってるのは何といっても界隈女性ばっかりなので、ゲイからしたら、なんか変なこと書かれても、あんまり痛くも痒くもない程度ではないかと思うんです。

 レズビアンが「なんか、こんなこと書かれた最悪!」っていうほどはダメージないのかもしれないですね。っていうのはもうゲイの創作物っていうのは、田亀源五郎先生とか児雷也先生とかね。野原くろ先生とかいて(GGGが)ジャンルとして成立しているからだと思うんです。

 で、私がちょっと思うのが百合もBLもなんですけど。これはねあくまで私の考えで、そうじゃなきゃいけないって話じゃないですけど。(注:ここから「にじり寄る」話です)

 映画に「ベクデルテスト」ってあるじゃないですか。

 映画とかで女性がわりと(キャラクターとして)ひどい扱いを受けているっていうことが多くて。で、ちゃんとジェンダー不均衡について目配りできるかどうか、っていうのをいくつかイエスノーで答えていって。「この作品ベクテルテストの要件満たしてるね」とか「これは全然駄目だ」というようなテストがあるんですよね。

 百合とかBLとかでも、そういうベクデルテスト的なもの。例えば「その権力/社会的な背景を利用しているか否か」。さっき言った上司と部下とか先生と生徒みたいな。そういう権力の勾配を使って性的な関係を結んだり、結ぼうとしたり、強要したりしてるかどうかとか。あとは「未成年を過剰に性的に描写していないか」っていう風な。

 いくつかそういうベクデルテスト的なものがあってもいいんじゃないかなって思います。

 もちろんそのベクデルテスト的なものをパスしてないといけないってわけじゃもちろんないです。ただ創作する人、鑑賞や消費する人とかに少しそういう意識があった方がいいんじゃないかなって。

 ただ、すこし私が難しいなって思うのが、その「未成年の性的な描写がダメ」って、まあダメなんですけど。「百合」って基本的に「少女」、未成年をキャラクターとして動かすことがすごく多いですよね。大体、中高生が主人公。成人同士も最近結構多いですけど。

 そういう風な傾向があるので、未成年を性的に描いているかどうかっていう話をすると。それを厳格に運用したりとしたら、なんか「百合」というジャンルの8割が消えてしまうのではないだろうかという怖さはあります。

元々のベクデルテストっていうのは……。

(以下、ウィキペディア読み上げ

ベクデル・テスト(英: Bechdel Test)とは、ジェンダーバイアス測定のために用いられるテストである。テストではあるフィクションの作品に、最低でも2人の女性が登場するか、女性同士の会話はあるか、その会話の中で男性に関する話題以外が出てくるかが問われる。2人の女性に名前がついていることも時としてテストの条件に付加される。

もともとは映画を評価するために用いられ、現在ではあらゆるフィクションにおいて用いられている。現代の映画の半分程度はこのテストをパスしないと言われており、これは映画産業で働く女性の比率が低いことや、業界人の観客の好みに対する想定ゆえであるとされている。批評家はこのテストは総体として考えた場合は有益だと指摘している。個別の作品については、性差別と無関係な理由でテストをパスしたりしなかったりし得る。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%82%AF%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88)

 っていうことなんですけど。百合やBLの倫理的なテストっていうのも何でしょうか。言葉ばかりだとか「アンチ表現の自由派」みたいな受け止め方をおそらくされるんですけれども。そういう視点があってもいいんじゃないかな?っていう私の提言でした。

 そのベクデルテスト的なものをパスしなきゃいけないってわけじゃないんですよ。ただこういう視点もあるよっていうのがコミュニティ……ファンダムに導入されることは決して悪いことじゃない。だから、さっき言った「総体として有益」というやつ、になるんじゃないかなと私は勝手に思ってます。これはね、実際に創作する人に聞いてみないと分からないですけど。

 あとはそういう視点が導入されたときに、無心に「ユリセ」って言われるような性的描写を楽しんでいた人にはちょっと受け入れがたい面もあるかもしれないですね。何ていうんでしょうか、頭の中にワーニングが出ちゃうような。ただ、ゲイコミックで良くある「これを実際に実践するとHIV感染の危険性があります」という但し書きみたいなもんで。ちょっと最初は引っかかると思うんです。けど慣れるんじゃないかって。だいたい読み飛ばすでしょ、見飛ばすでしょ、そんなもん。でもなんかそういう小さいストッパーでもいいんじゃないかな、っていうのが、もう、しつこいけど私の意見です。

 ちょっと次回はあの再開した筋トレの話でもしてね。ベクデルテスト的なものの具体的な話はいつになるかはちょっと分からないかもしれないです。友達にも聞いてみたいです。

 長々と。今日なんか人多かったね。67人だって。今は18人もいらっしゃいますけど。本当に長々とありがとうございました。それじゃまた、来週金曜日。またtwitterから告知しますので。また、お会いいたしましょう。じゃあ、皆さま安らかな夜を。お休みなさいませ。

→1時間半話したうちの後半。 2022.3.21配信

 あまりにも本筋から外れた脱線の省略、話を追うのに必要な補足、話の筋の錯綜の編集、冗漫な繰り返しの削除など、手を加えております。

追記:さすがにツイッターで「3P痴漢百合(女子高生)」が流れてきたときはびっくりしました。

百合とBLのクィアベイティング性について(その1-①)【配信再録】

 まだ、あのー薄暗いままです。なんかね新しいライトつけるのはちょっと怖いので、薄暗い感じなんですけど。
 なんとかキッチンの方とかユニットバスから漏れてくる光を下にお話ししております。コメントしても差し支えない人は「聞こえてる~」とか教えてください。

 前々からちょっとクィアベイティングの話はしたかったんです。これ話そうと思ったきっかけが、多分半年以上前になると思うんですけれど。あのポカリスエットのCM、結構話題になったことがあるじゃないですか。あの結構セットにもお金かけてて。女の子が、まあポカリスエットといったら女子、女子高生。制服女子高生ですよね。その制服の高校生と思しき子がお花ざかりの学校の中を走って行って。最後に体育館かなんかなんかで女の子同士、手を取り合ってくるくる回ってEND。というのがありました。それをツイッター上でゲイの男の子と「なんかあれいいよね」って話した時に、私は「ちょっとあれ微妙なんだよね」、「ちょっとクィアベイティングじゃね」みたいな話になって。それはその時でふわっと終わっちゃったんですけど。

(あと喋りやすいので、適当にコメント入れてくれたほうがありがたいです。最近、某Mちゃん、ツイッターで相互フォローしてて、ゲーム配信してるんですよね。で、私一人がこうやって配信してる時にコメントあったほうがやりやすいからと思ってコメント入れるんです。けど気がつくとね、だーっとね十何行以上下手すると数十行私のコメントだけで。「これちょっとやばいんじゃないか」と思っていて。この間、Mちゃんと会う機会があって。どっちかって言うと呼び出し、って感じだったので。あのー何でしょう。えっと、呼び出しで「ちょっとアレだと困るんですけど」とやんわりと言われるのかな。って、ビクビクしながら出かけて行って。別にそれはそうじゃなくて、かわいそうな動物の私にご飯をおごってくれるだけだったんですよ。)

 さて、きっかけのもうひとつ。去年のワタシのプッシュマンガ作品のうちで「作りたい女と食べたい女」ってあったじゃないですか。主人公がまあ古い分類ですけど恐らくレズビアンかなっていう感じ。売れてるいわゆる「百合」っていうカテゴリの中では久しぶりにこう「Lのためのマンガ」と感じられるものだったんですよね。ただフォロワーさんに指摘されたんですけど以前に書いてたのがBLで、セックス描写とかもかなりあって「ゲイ表象をちょっと性的消費してる部分が強いんじゃないか」っていう指摘をされて。
 あの作者(ゆざきさかおみさん)トータルとして(過去にさかのぼって別作品も含めて)100%罪がないって変なんですよね。あり得ない。あの作品(「作りたい女と食べたい女」)でも100%政治的に素晴らしく誰も傷つけない表現っていうのはちょっと無理ですよね。で、その上でどうしたら……あの安っぽい言い方なんですけど、「より良い表現」ににじり寄るれるのか。を、考えたい。なんか簡単に「そっち」(ポリティカリーコレクト100%)に「ハイ、行きます!」みたいにはならないので。
 「にじり寄る」って言葉をね、考えたい。

ちょっとカフェラテでも飲みながら話していこうと思います。

 今日は「100%の表現」ってないよね、っていうのと、どうやったらその「より良いっていう表現」ににじり寄れるのかということを前提としつつ(クィアベイティングの)話をしたい。ので、今日はたぶんその1で終わっちゃうと思います。
 これはシリーズでパート3くらい行くかなって感じです。

 実は去年、結構本を処分しちゃったんです。なので本当はこの話も実際に持ってるマンガとかを例に取りつつ話せたら良かったんですけど。手元に残るのって表現としてより良いポリティカリーコレクトな方のマンガなんですよ。ウェブで売れてるとか、店頭で平積みになってたとか、ちょっとエッチそうとか。そういうフックで買った本って残らないので。今、私の書棚にあるBLは優等生な感じなのだけが残っています。「ちょっとあのー、これは駄目なんじゃない?」って批判っていうか対比させるために。「これは同意なしのセックスとかポリティカリーコレクトとして弱いんじゃないの?」っていうものとして実際に提示できたら良かったんですけど。またの課題で。

 でですね、話は元に戻るんですけど。「百合」のクィアベイティング性。この話をするときツイッター予告でキュキュッと「クィアベイティング」って書いちゃったんですけど。なんか一般的な検索したら、日本語でまとまって「これがクィアベイティングです」っていうの解説を見つけられなかったんですよ。(論文検索ならあるかもしれない)
 どっちかっていうと海外のセレブニュースみたいなやつの中で、セレブが軽率にやった「女同士でキスしてみた」が非難される時にクィアベイティングだって言われるのを見かけるかなと。ワタシなりの解釈だと実際はクィアではないとか、クィアである実態?が全くない人とかが商業的にクィアであることを匂わせたりする、みたいなことをクィアベイティングっていうんじゃないかなと思ってます。

 もともとなんかベィティングっていうのが何でしょう。釣りのルアーとかのウニャウニャウニャウニャってなってるやつをベイトって言うじゃないですか。ああいう「おびき寄せる」ようなものの事いうみたいなんですけど。というのが大前提にしてて、ワタシのこの解釈もしかしたら間違ってるかもしれない。(ごめんなさい)
 なんか日本で、まとまった用例がなんか見っかんないんですよね。
そもそもなんかクィアという言葉自体がまだ浸透してないっていうか。クィア自体が……定義。こういうものに定義ってね。もともと変態って言葉ですから。変態にね、かっちりした定義がないんですよ。
 なのであのクィアベイティング自体も、あんまりかっちりした定義が馴染まない言葉かなとは思います。


 まあなんですよ。一昔前のt.A.T.u.みたいなもんだと思えばいいと思います。で若者はt.A.T.u.知らないよね。あのロシア初?のあのクィアベイティングガールズ2人ユニットです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/T.A.T.u.

 クィアベイティングなんですけど。ポカリスエットのCMとかを例にとっても、あの「百合」っていうあの装置で消費者を引き付けるっていうことは割とカジュアルにされてると思うんです。最近ワタシのアンテナでちょっとざりざりざりってちょっと嫌な音を立てたのがそのポカリスエットのあのクルクル回るCMだったんですね。その百合がそういうふうにクィアベイティングである……。これをクィアベイティングって言っていいのかどうか、っていうなあの議論もありと思いますけどそれはとりあえず置いといて、ワタシの中でクィアベイティングなのでちょっと話を先に進ませます。
 で、男の子同士だとそういう風に同性愛のような姿を借りて、ポカリスエットのCMで出てくるっていうことがまあないですよね。その時ワタシの相互フォローさんもが言ってたのは「男子高校生というと洗濯物がいっぱいで、とにかくたくさんご飯を食べるだけで。なんか男子高校生だってクルクルしてもいいじゃないか!」って。ワタシはなんかそうだそうだって「男子もぐるぐる回れ!」って感じでしたが。
 実際にくるくる回るのって女の子二人なんですよね。くるくる回るだけなのでこう百合とかガールズラブみたいな言葉はCMの中では一切使われていないですけど。
ただ、視聴者は勝手に女の子同士の友情だと受け取ったり、勝手にレズビアンだと思って勇気付けられたり。若くてきれいな女の子二人の表象。そういう同性愛的な表象って、絵になるっていうか……。なんか金になるんだなって。金になるんだなって(2回言った)。つくづく思いました。
 そして、その類のきれいな表象が「百合」っていうジャンルの中で、どんどん強化されていると思うんです。百合っていえば女性間の同性愛的な表象である。っていうのを社会的な「LGBTとか言われるような人・もの・動き」とかと結びつけない傾向がすごく強くなってきてると思うんですね。

 でも結局は「百合」って女性間同性愛表象を使っちゃってるっていうのは事実です。
なんかそれは美しいカップルだろうとワタシみたいな50代シングルなワタシも同性愛表象。表象の一部ではありますし、間違いございません。

 で、どう転んでも「百合」は同性愛表象であることには違いがないと思うんですよね。で、オタクっていうかそういうフィクションの物語を好む人がよく言うのが「ファンタジーと現実は別物」っていう言い方をするんですけれども、じゃあ何で現代日本の実際にあるようなあの書割めいた、あの物語の組み立てで、実際にいる女性二人のような姿を借りてあの表現をするのだろうか?っていう。
「好きだから理由はない」ってというかもしれないですが、好きだったら、好きだからこそ、そこに絶対理由があるんですよ。うん。

 で、ポカリスエットのCMね。フォロワーさんの周りでも議論してました。そういうのがどんどん表に浮かび上がってくればいい、みたいな。ワタシの観測範囲が悪いのかもしれないけれど、そういう議論があんまり表立って議論されなくって。なんとなく「いいCMでしたね!」で終わっちゃって。「えー!?」みたいな。

 で、元に戻ります。
 ファンタジーだろうと何だろうとやっぱり同性愛表象っていうものを使ってるのは違いがない。現実とやっぱり繋がってるんですよ。ワタシはね、一時期まではツイッターのトピックをフォローすると自動的にそれに関連するツイートが流れてくるっていうのあるじゃないですか。それで一時期ちょっと「百合」っていうのをフォローしてたんですけど。もう「ヤバいね。気持ち悪いね」みたいなが多くて。
 気持ち悪いっていうのって、別にあからさまなセックスシーンがあるとかじゃなくて。これが男女間だったら超ドン引きみたいなやつが普通に消費されていて。


 例えば「女性上司と」って。これも女性上司っていうのは変な言葉。男性の上司って無徴なんだけど上司に女ってつけないと、それを表せないっていうの。すごくあの女上司ってのはジェンダー的にね興味深いというか、あのアレなんだなっていうふうに思うわけなんですが。

 また話がずれました。
 その女上司と新入社員みたいな関係性でその上司の方がその権力を盾に取って、一緒のプロジェクトになるように仕組んだりとか出張で「あっ、間違えちゃった」とかってツインやダブルの部屋になるように仕組んだりとか。いやマジで気持ち悪いじゃないですか~。
 あと学校の先生と生徒とかね。権力の濫用以外にも「普通に犯罪ですよ」みたいなやつが多い。人並み外れて執着心が強い、ストーカーみたいな。気付かれてないだけのストーカーみたいなのが「純粋で一途な女の子」っていう描き方されて。「百合って無法地帯!」と思えるようなのが散見されてしまって。


 それから「女からセクハラするなら大丈夫だよ」みたいな作品ね。ちょいちょいありますよね。

 そして、百合は女なら(セクシャルハラスメントも)無罪っていうのを、かける、女の二乗みたいな感じで、ヤバさも二乗!もろに犯罪!みたいなのがありますよね。例えば、「酔っぱらっているから持ち帰りOKでセックスもOKだよね」、って……OKなわけあるかああ! でも本当そんなんですよ。
 もう百合、犯罪行為が横行しています、百合創作。そういうのをね見慣れると界隈そんなもんだからいいんだみたいな感じになっちゃうかもしれないですけど。いやいやいやいや。表象(に参照)されているこの現実の生身の人間たちってどうなのよ、と。

 百合って「百合姫」とかがね、「百合姫」じゃない。創刊する前に「百合姉妹」ってあったんですよ。4号だけで終わったけど。あの「百合姫」が創刊された頃とかって、当時当事者の作家さんがいたんですよ。そうするとまあ表現も当事者が読んでもキモくないっていうか、勇気づけられるような、「こんなのあるある」みたいな話。そういうのがあったんですよ。うん。
 それが「百合姫」も時代が下ってくるにつれて変わってきて。戦犯は基本的に「百合男子」だと思ってるんですけど。男子目線の「百合」も増えてきて。最近はホントにキャラクターがめちゃめちゃ「バ美肉」なんですよ。あのバ美肉って言ってもワタシのフォロワーさんだと知らない人がちょっと多いかもしれないですけど、「バーチャルで美少女に受肉」の略で。美少女のアバターでVチューバーするとか。(見た目美少女だけど)中身はおじさんだったりするのです。
 百合をやってるんだけれども行動原理とか言動がめちゃめちゃおじさんが女子高生というスキンをかぶってくちゅくちゅイチャイチャしてる、っていうね。……イチャイチャの前にクチュクチュって言っちゃった。

 なんかさあ、もうさ、おじさんなんだよね。ほんとね、女子高生同士なのに何でこんなにとってもバ美肉おじさんなんだろう……みたいな作品が。増えたなと思ってます。あとはR18でもないのに百合はカジュアルにエッチなものだからみたいな感じで。ストーリーの中で「ちょっと早くない?」という段階でエッチなことをしてラストにもう一回みたいな。いやいやいやいやいや、せめてR18にして。みたいな感じなんですよね。(エッチを描くことは否定しません。キリッ)
 バ美肉に限らず界隈で好まれる表現っていうのがあって、こないだ「百合姫」の初期くらいの頃から描いているあの漫画家さんがいて、絵柄変わったの。前はしゅっとした感じの等身の高い感じの絵を描いてた人なんですけど。丸っこくなってて、めっちゃ巨乳になってて、顔の造作とかもちょっと幼くなって。えーこの人こんな絵を描くようになったんだって驚いて。ちょっとね、怖い感じがしました。

→1時間半話したうちのアタマ30分。 2022.3.21配信

 あまりにも本筋から外れた脱線の省略、話を追うのに必要な補足、話の筋の錯綜の編集、冗漫な繰り返しの削除など、手を加えております。話の途中なので伏線回収もあるよ。
 まだまだ続くよ!

追記:「作りたい女と食べたい女」はポリティカリーコレクトに寄ってるがゆえにいろんなものを背負わされすぎだと思います……。

二丁目レズビアンバーに魅せられて

 こないだはワタシのリブ活動事始めの「LABRYS DASH」の96年創刊号について触れましたが、ワタシが関わっていたのは1~5号まで。辞め(させられた)た理由はというと、内部の人間関係の悪化。わりとワタシは巻き添え食った形だったと記憶しています。当時は「そんなンひどいだろ!」と外部に訴えることもなく、担当していた人にもあいさつすることすら許されずにひっそり辞めたものでした。その頃は波風立たせずに「とにかくDASHに傷が付かなければ」と思ってたので、まあ健気でしたよね。ただ、ここで「追い出され癖」が付いてしまって、しばらく理由にもならないような理由で追い出されることが何回も続きます。ワタシ自身もあきらめが早くなって「ダメだこいつら」と思って気配感じた時点で消えたりするようになってしまいました。この辺はリブの暗部とも言えるかもしれません。

5号表紙 版型変わらずA5中綴じ ページ数はけっこう増えてて表紙込みの52ページに

 と、恨み節っぽくなりましたが、そんな薄暗い活動世界とまた別個で自分の持っている世界が二丁目を中心にして広がる夜のレズビアンシーンでした。活動に傷ついて訪れても夜の世界はいつも優しかったのです。

 というわけで、「勝手に作れば?」みたいな感じで特集記事作成が放り投げられたので、自分の趣味を貫いて、お助けスタッフだったiちゃんも巻き込んで作ったのが「新宿2丁目特集」。ワタシとiちゃんが掛け合い漫才みたいに短文をポンポン交互に書いているのですが。基本的にここから自分の興味や芸風がほとんど変わってなくて「ヒエッ」って感じです。とりあえず、魅力減じますが自分の文章だけ一部再録。ワタシの人生を大きく変えたKINS WOMyNについて。レズビアンの活動シーンを大きく変えたのは掛札さんでしたが、夜のシーンを大きく変えたのはKINSでした。ここからずっとワタシは新宿二丁目のバーシーンに魅惑され続けています。

伝説のと言っても過言ではないKINS WOMyNがトップ記事

KINS WOMyN

わたしは「初めてなんですぅ~」ということにして、いろいろ聞き込もうと企んだのである。もう何度行ったか分からないけど、細い階段を昇っていくときはいつもワクワクする。近づくにつれてダンスミュージックが大きくなり、ドアを開けると音とタバコの煙が頭から浴びせかけられる。その瞬間「つっちー!ひさしぶりじゃーん」……すべての設定は崩れ去った。Taraさん(注)にジントニックを注文しても、「最近よく見るね」。ああ、そうなんです。二丁目は初めてなんて言ったらエンマさまに舌を引っこ抜かれます。さらに奥には昨日もここに来ていた古い友人。奴は失恋したばかりなのだ。二日運続で会ってしまうという所がお互い実にトホホである。友人同士の近況報告やら新しい友人の紹介やら。人の噂話にあくまで憶測、有名人をみかけた話。どんどん人が増えていき、立ち飲みの人でいつばいの溝員電車状態。何だか知らないけれど目ざとい友人に「活動家のつっちーだ」と紹介される。何だそりゃと思うが、何をやっているかと興味を示す人もいる。当然、ダッシュのことを話すが反応がいいので調子に乗って映画祭(注)まで説明をする。ヤケになってサロンポジティプ(注)の営業まで始める。初心者どころか超ベテランって感じ。そんな馬鹿騒ぎの中でまだ慣れてなさそうで壁にもたれて一人で飲んでいる新人さんらしき子がいた。あれはX年前の私だ。みんな友連同士みたいで入り込めなくて。自分から声をかけるなんてできなかった。そんな私が「つっち一つて、どんなセックスしてるの?」と聞かれて、「知りたいんなら寝てみなきゃねー」と私は相手の肩に手を回したりするようになった。思わず遠い目をしてしまったわ。(原文注・Taraさん 店長さん。KINSの別名はTara’s Barという。 映画祭・今号の第2特集参照。 サロンポジティブ・本誌「アクティビスト通信」執筆の溝口さんが主催するサロンパーティー)

(1997年春号3月発行より)

 ひどい。ホントに芸風が変わってない。ワタシの新宿2丁目への思いは同人誌としてまとめている「東京レズビアンバーガイド」にたっぷり書いているので、そちらを参照してもらうとして。ワタシ、いわゆる活動家を長年やってて傷つけられることが本当に多かったんですよ。そんでも、夜の街はいつも優しくて慰められたものです。

 それにしても「活動」って難しいですよ。みんな善意で集まるのですが、方向性や方法論が違うとギクシャクするし、ボランティアだから能力差も隔たりがすごい。ここに金とか金銭以外のプロフィットがあればそれで右向け右ができるのでしょうけど、わりと最近までいわゆる「セクマイ」の活動は100%の手弁当のボランティアで成り立ってたのでそれもできなくて。活動の運営自体が手探りの、いろんなものがゼロからの時代だったと思います。ワタシ、いまだにつらくて思い出したくないことがたくさんあります。

東京セントリズムを脱するために

 地方に住んでいると感じる不満のひとつが「首都圏発の情報ばかり」というのがあると思う。マスコミにおいては本局がだいたい東京にあるし、勤めている人も首都圏出身者が多かったりして「地方」への視線は薄いか、情報を「吸い上げる」対象だったりすることが多いのではと思っている。首都圏で生まれ育つ、ということ自体が権力である、のですが。今回はそこの話はおいておいて、再録を起点にまた昔話をしたいと思います。

創刊号表紙にlesbian&bisexual womyn という表記が見えます 当時の主流表記ですね
表紙込み44ページの中綴じ冊子です それを隔月刊、スタッフ3人という無謀

 ワタシは96年に「LABRYS DASH」というレズビアン&バイセクシャル女性向け(※注1)のミニコミの編集スタッフを務めたときからが自分の「リブ活動」の皮きりだと位置づけています。が、その記念すべき第1号の特集が「つっちーの日本全国ビアン旅」だったのです。これ、この当時は「LABRYS」というミニコミ誌(掛札さん※注2 が主宰してたもので、LABRYS DASHは単なるここの後継誌)の影響で日本各地に当事者コミュニティ的なサークルがぽつぽつできていた時だったんですよ。で、ワタシが実際にそこへ出かけて行ってルポ記事を書くというもの。そのおかげか地方の人たちに「つっちーは地方への目配りのある人」という評価をいただいたのですが、ワタシの記憶ではスーパーバイザー的にダッシュにも関わってくれていた掛札さんに焚きつけられたような記憶があるので、掛札さんの慧眼のおかげだったよなぁ、と今は思います。(当時はアラサーかそこらの若い掛札さんにアドバイス受けるたびに「クッソババア」とか内心思う不遜な若者でした)

特集ページのトップ 広島のサークルの記事は再録してよいものか悩みますのでモザイクらせてください

 特集は広島のサークル「SOUL MATE」、京都のクィアスペース「アートスケープ」、京都大学の「プロジェクトP」、京都のメトロで開催のクラブイベント「CULB LUV +」、大阪の活動グループ「OLP」、大阪のDAWNで開催していたクラブイベント「LESBIAN NIGHT」と紹介が続く。ところどころに麻姑仙女さんや関西クィアフィルムフェス、ドラァグクイーンのメロディアスなどについてのコラムがはさまるボリュームある構成でした。本来なら地方のレズビアンサークルのルポを引くべきかもしれませんが、この頃のミニコミが会員制だったことなどを考えると安易にここに引いていいのか迷います。なので、そのころの当事者が見ても許してくれそうな……、ワタシが当時何を考えていたのか分かりやすい「アートスケープ」の一文を引きます。

京都の奇跡 アートスケープ

 京都大学に程近い木造の一軒家、そこがアートスケープ。
 関西セクシャリティ関連の4つの事務所(エイズポスタープロジェクト(A.P.P.)、関西の映画祭(Q.F.F.)等)が入っていてアーティスティックかつ質の高いものを発信し続けている。また、二階には宿泊所もあって私も二泊お世話になった。……なんて固い紹介は止めにしよう。業界梁山泊といった方がいいかもしれない。
 ゲイバイレズビアンヘテロにその他大勢がああでもないこうでもないと学校の部室のようにたまって雑談をし、マックをいじってポスターを作り、何だか無意味に寝泊まりする人もいるし真面目に細かな手作業をしている脇でただ漫画を読んでいるだけの人がいたり。どんな人が何をしていてもいいですよーという雰囲気。セクシャリティ自体を語るよりもいろんな人がいて(それが当たり前として)その中でどう話して手をつないでいくかが強いところだ。こういう所は東京にもないね。
 終電を逃したといっては別に4つのプロジェクトとは無縁な人もやってきて真夜中まで雑談して帰っていく。雑談にしておくのが惜しい冴えた話もある。それからプロジェクトが生まれてくることもあるんだろう。単に品のないお下劣な下ネタ雑談の時もあり……。すごく力のある真面目なことをやっているのに和気あいあいしてる!
「レズビアンだけ!」と、囲うことでクリアになる問題もあればアートスケープの雑多さで生まれてくるバイタリティーと視野の広さもある。
 私にとってはミックスを推し進めるのは人生の大命題の一つだったのにさ、こんな所がもう存在してたなんて。信じられないような気分だったよ。とにかく啓発されるところざます。近畿の大物はほとんどここにくる。

 と、熱のこもった文章書いてますよね、24年前のワタシ。このあと様々なことがあって、「きちんと考えて対策立てないでミックスやると力の弱い人が追いやられるだけになる上に、『ミックスやった』という言質を悪質な人間に与えるだけ」というのが分かってしまいました。安易なミックスやると一般社会のさらにミニコピー作るだけで人が死にます。つらみ。

 読み返すと、目配りの足りないところがたくさんあります。文章自体も「中黒じゃなくて三点リーダー使えよ!」とかあらが目立つので(さすがに中黒→三点リーダー、ハイフン→長音符に変更かけました)「26歳なんてこんなもんなのか」とかガックリ首が折れますね。といっても、このころのワタシの熱意は本物だったので(当然自腹取材で労力もすべてボランティア)。今の自分ならお小遣いのひとつもあげたいなと思いますよ。あの頃のワタシはレズ受けしやすい容姿だったしね!

 でも、この特集記事のルポを書いたおかげで日本のあちこちに知人友人ができて、それぞれの地方で活動のスタンスや「色合い」が違うことを肌で感じることができました。今現在、東京で成功している方法論をごり押しで地方都市に持ちこもうとする動きがあるというのも伝え聞きますが、何はなくとも活動は「そこに住んでいる人たちのもの」でなければならないと「ワタシは」思いますよ。

※注1 当時はLGBTとかクィアなどの言葉は一般的ではなかったので「レズビアン&バイセクシャル女性」という表記ががもっとも適当だったと思います
※注2 掛札悠子さん まさか掛札さんに注を入れなければいけない時代が来るとは思いませんでした。90年代にカムアウトしてメジャー出版社から書籍を出した人、であるにのみならず、ミニコミ出版、フリースペース創設、講演活動と活動の幅が広く、その影響は大変大きい。書き続けると本文より長くなるのでココ(http://onilez.hatenablog.com/entry/2017/09/20/215332)とか参考にしてください。ワタシはまさにポスト掛札を生きたレズビアンだったと思います。

レズバーはいつ行くべきか

 ワタシは大学卒業してほどなくレズビアン向けのクラブイベントに行ったのがいわゆるレズビアンコミュニティにつながったことはじめ。それからレズビアンバーなどにも行きはじめ、あまり出歩かなかった期間もあるがずっと首都圏レズビアンシーンの夜の部に魅惑され続けている。

 そして、いわゆる真面目な「アクティビズム」は記録されるが、夜の街の密やかな歴史が消えていくことに危機感持っていた。いわゆる活動系のレズビアンはナイトシーンを記録しようとしなかった。それにワタシよりも年上のお姉さんたちがオープンしたバーがぽつぽつと消えていっている時期でもありましたから。そんなこんなで作り始めたのが「東京レズビアンバーガイド」シリーズの同人誌。これはまだ継続しているプロジェクトなので、ちょっと残部が売れたらいいなぁという気持ちもあって、1本だけ雑文を収録します。以下お読みください。

まだ在庫あるので買って欲しいですー 手売りだけですけど

レズバーいつ行くの? いますぐ!

ワタシは嘘がつけないタチで
 二丁目レズバーの同人誌を書いていることが知れ渡ると、よく言われることがあります。「今度連れて行ってください」と「もうおばちゃんだけど、行ってもいいかしら」がツートップ。前者については前号で触れましたが(結論:ひとりで行け)後者については「えー、全然~、そんなの~、大丈夫ですよ~❤」待ちなので割ととてもかなり面倒くさい。
 正直、レズビアンバーでの恋愛メイン年代はせいぜい35歳まで、よほど若く見えてもアラフォーまでなので40過ぎたら苦戦が見込まれます。めくるめく色恋を期待してるなら全然大丈夫じゃない。「今すぐあきらめな!」というのが本音。ワタシは嘘がつけないタチなので。いやネコなんだけど。(だまれ)
 中には20代後半で「もうおばちゃんだけど」とか言う小娘もいますがケンカ売ってんのか。横っ面ひっぱたいてやりたい。(アラフィフの徳の低い本音)20代後半とか一番いいので、今すぐ新しいパンツをはいて行って欲しい。

レズバーに何を期待してるのか
 半分人生相談みたいな感じで「ずっと行ってみたいと思っているうちにいつのまにか50代になってしまいました」とか言われると本当に重い。とはいえ、そういう人生を選んだのは自分なので何とも言いようがない。ただ、レズバーに期待しているものが色恋でないなら苦戦とか考えなくてもいい。ワタシが二丁目に通うのはもう昔みたいに夜の恋を探してのことではない。自分を育ててくれたレズビアンのバーシーンに対する愛着、それを何とか消える前に記録しておきたいという執念あってのことだ。ただ、女性たちが憂いなく夜を楽しんでいるのを見るのは楽しいし、こんな夜がずっと続くといいねと祈りたくなる。時によると、なにか神聖な気分にすらなる。
 そんな風に一歩引いた「主役の人たちを見守るわき役」として過ごせるのなら何歳だろうと遅いということは絶対ない。
レズバーが舞台なら
 レズビアンバーが舞台なら、主役はやはり恋をしている女の子たちだろう。だけど、わき役であるところのオバサン達にも人生があるし、ドラマはやっぱりある。恋に出会わなくても友情は生まれるし、友愛もまた尊いものだ。
 あなたがレズビアンバーに入店できる要件を満たし、かつ行ってみたいと思っているのなら、万障繰り合わせて出かけることを検討してほしい。何であろうとバーシーンは若くて体力あるうちの方が楽しめる。もうホントに、今すぐ、今週末にでも、出かけるべきです!
(2018年12月31日刊行「東京レズビアンバーガイド3杯目」より)

 同人誌というメディアなので割とマイルドに書いてますが、レズビアンコミュニティは恋愛を基盤にした集団なので、人の美醜や年齢にはわりと冷酷な所があります。「差別される人がさらに差別するなんてひどい!」という人もいますが。いや、オメー何言ってんの? とワタシは思ってしまうクチ。そういうこと言う人が性愛の対象でも美醜も年齢もまったく気にしないというなら「左様ですか」と思わなくもないのですが、大体は自分のことは高く高く棚上げして相手には高いレベル求めてたりするんですよ。まあ、冷酷なのが正しいとは思いませんけど。

 なので、わりと年行ってからデビューしようと思ってる人はあまり期待しない方がいいと思います。(若い頃に事務所に所属してたクラスの美人とか除く)ワタシなんて、同年代で貧乏でもちゃんと働いてて容姿レベルと脳ミソレベルが自分と同じくらいの人、と割と控えめな条件でも全然マッチングしませんもん。現時点ではレズビアンは年取ると(恋愛的には)苦戦しますよ。マジ、思い立ったら老いも若きもすぐに行った方が良いです。ホントに。

理解と解釈の間

 ワタシにとって去年読んだ漫画のベストワンは「ヘテロゲニア リンギスティコ」だったのですが。その面白さのコア解説はまたの機会にとっておいて、その作中でとても印象的だった一節。

「私が理解だと思っていたこと 理解ではなく解釈だった 理解への壁は限りなく高い 今後はこの自覚を持って臨む」

ヘテロゲニア リンギスティコ1巻より

 駆け出しの言語学者に託した恩師の覚書の一節なのですが。これ、わりとワタシに響いたんです。レズビアンなんてマイノリティを長年やってると、「解釈」されること多いんです。「どっちが男役?」とかの類の。(もっと下劣なこと言われたりしましたが、今度の「マッハで走る」サイトはもう少し上品に運営しようとおもってますので、おほほ)

「私たちは異性愛者と変わりません!」と言われると「そうか、愛情あって一緒に住んだりするのは自分たちと同じだもんな」と「良心的」なヘテロセクシャルの人は思うようなのですが、そこが一歩目の陥穽。男性と女性とでジェンダー制度で色濃く区分けされている男女という「異種族」がパートナーシップ組むのと我らは違うのですよ。リードする方される方の役割固定はないではないのですけど。その分担はよりゆるいので「男役/女役」と言われても、「は?二人とも女だけど?」というカンジになるし、なんで常に男がリードすんの?って思う。(余談ですが、そのリードするべしという規範の強い男性が料理とか掃除とかで女性に「指導」されるとすぐにすねるのではと思ってます)同じで違うのですが、自分の中に異性愛の世界しか存在せず、分からないことを「自分」に引き付けて「分かろう」とする人はこの手の間違い犯しがちです。

 とはいっても、自分の世界にないものとか知識の薄いものについては同じような間違いを犯すものですよ。アナタもワタシも。人である以上。ワタシがその愚を犯した記録が以下。

その4:ボーイズ ドント クライ 雑感

 大分、前になるが、話題のこの映画、見に行きました。(いつだったっけ?>毛玉クン)
 残念なことに実録モノの「ブランドン・ティーナ ストーリー」を東京の映画祭で先に見てしまったワタシ。こちらの方の感想としては「ブランドン君ってバカな子」だった。何もワザワザ田舎に行かなくてもいいだろーに。60年代なら純粋な悲劇だったかもしれないが、90年代でアレはないだろー、と思ってしまったのだった。そして、ブランドン君が本当にTSなのか、大いなる疑惑を持ったのであった。(だってさぁ、クソ田舎で「女役割」にはまりきれないからって、いきなり「自分はGIDである」って決め込んじゃう子ってよくいるもん)
 んで、本編。ヒラリー・スワンクの熱演は素晴らしい!さすがアカデミー女優。だけどねぇ、ジェンダーズ・アウトローな人々を見慣れているワタシの目には、ブランドン君が「パス」するってーのが信じ難かった。つーか、いがちなタッちゃん。ヒジョーに女心をくすぐる手管の数々。「アンタ!女心ワカり過ぎ!!」と何度スクリーンにツッコミを入れたことか。(ヤッパリこちらを先に見ておくべきだった)
 ストーリーはさくさく進み、「ツライ」と話題だったレイプシーンもあっさり見ることができました(ワタシってヤバいかなぁ?)。
 ワタシの心を打ったのは、追われるようにして知人の納屋に寝泊りするようになったブランドン君のもとに恋人のラナが現れる。そして、ブランドン君、初めて服を脱いでカノジョとセックスする。ここでワタシは「ブランドン君、自分があるがままの女であることを受け入れたのね。良かったわぁ」そーゆー感覚で見てしまったのだ。
 真実のティーナ・ブランドンのセクシュアリティは分からない。しかし、映画ではブランドン君が「性同一性障害」である前提で作ってあったはずだった。でも、ワタシは「レズタチ、ジェンダーの揺らぎとレズビアン性の獲得」という解釈を無意識で行った。というか、そうやって観るのがワタシにとって自然だった。
 ワタシはレズビアンとしてのフレームから逃れることができないのだろうか。ノンケのバカさ加減にげんなりするワタシも見慣れぬものには、自分のフレームでしかモノを見ない。それを痛感した。(2000.9.14)

 というカンジでトランス男性の話を「レズ映画」として鑑賞してしまうというヤバいやつでした、ワタシは。まあ、そのヤバさを自覚してこんな文章をサイトに上げたり、当時友人のMtFに懺悔をしたりしたのですが。まだ隣接領域だから気づけたもののヤバかったですね。

※注 「ボーイズドントクライ」は1999年の映画。トランス男性(当時はこの表現はほぼなくて、性同一性障害概念が優位でした)がヘイトクライムで亡くなった実話をもとにしている。主演のヒラリー・スワンクはこの映画でアカデミー主演「女優」賞などとってます。恋人役のラナはクロエ・セヴィニー。それなりの予算感をもってハリウッドでトランスジェンダーの映画が作られたはしりだと思います。
「ブランドン・ティーナ・ストーリー」はその実話のドキュメント。再録の文章の通り、2000年の東京国際レズビアン&ゲイ映画祭(現レインボーリール東京)で上映されてます。映画祭といえば、2001年のサイトの「クイア デ ポン」というコーナーに「ボーイズドントクライ」のひどい感想寄せてます。あそこは古いサイトもそのまま残してくれているという貴重なアーカイブになっていて今でも読めます。リンクはこちらhttps://rainbowreeltokyo.com/2001/qdp/boys.html
さらに注ですが文中の「毛玉クン」というのは当時付き合っていた子です。ウッ

 こういう「間違った解釈」をどうすれば避けられるのかというと、冒頭の恩師の覚書の「この自覚を持って臨む」しかないのですが、それは心構えの話で、実際にはどうしたらよかろうかという。

 ワタシは個人的には理解できないことに直面したら当面「そうなんだー」で良いと思ってるんですよ。分からないものはあるがままに世界にある。まずそれを頭にしっかり入れておくのが大事なのではと。何でもかんでも「自分のことだと思って考える」のは違うと思いますね。そういう思考は公園の砂場でおもちゃを横取りしたこどもに「相手の気持ちになって考えなさい」っていうレベルの話で。大人は大人の理解があると思います。「自分の身になる」って結局は己のフレームから離れられないし。大人には大人の抽象的な思考があると思いますよ。そこへの扉の第一歩が「そうなんだー」なのではと。同性愛者と異性愛者は同じで違う。偉大な第一歩から地道に共通点を抽出したり、異質な部分を感じ取っていくのが大人の理解だと思いますね、ワタシは。

顔の見えるワタシと実在担保性

 2000年当時からインターネットという電子の海にポートレート写真を放流していた向こう見ずなアラサーのワタシでした。ただ、インターネットにつなげることができる人がとても少なく、さらにそこに自分の意見を書き連ねることはもっと難しい時代でもありました。(単なる「ブス」という罵倒も含めて)ワタシが顔写真を出すというのはカムアウトも兼ねてしまうのですが、あんまり心配はしてませんでしたねー。(レズ出会い系に他人が拝借してるのを発見して取り下げたのですが)今思えば牧歌的な時代でした。

過去のサイトの初代ポートレート画像

 そんなワタシが書いたテキストが以下。

その9:顔の見えるワタクシ

 このサイトを開いて20日間ばかりですが、カウンターが700を超えていて恐ろしいですね(笑)。一体誰が見てるんでしょう?ワタシはすでに何回も地雷を踏んでいるので、嫌がらせメールとかボード荒らしとかが現れるものと思ってたのですが、あまりに平穏で物足りません(小マジ)。
 で、ふと思いました。ホントはスゲーむかついてる人たちがいて、『あんなコト言ってるヤツなんて、ブスに決まってるわ』と、仲間内で言い合っているかもしれない!急にムカ入って、写真をアップしてみました(笑)。アレだけのことを書いているので、「逃げも隠れもしないぜ!(ファイティングポーズで)」という意思表明でもあるのですが、やはり反応がありません。せめて「オナペットにしました」という書き込みでもいいから何とかなりませんかね?
 関西WEでこの話をすると、「怖くて書き込みとかできないんでしょ」もしくは「ケンカするにも相手を見る」という評をいただきました。確かに「鬼」を自称してますから恐ろしげですが、ツレヅレの内容を読めば、ワタシがヘナレズであることは一目瞭然です。それで、「ケンカを売るにも足りない」なんて思われているのでしょうか?それとも写真があまりにブスだったので発言する気力が失せたんでしょうか(ひぃ)。
 あれこれ考えているウチに「顔出しって失敗だったかも」という結論に達しつつあります。春乃かおりがあんなにバカなのに需要があるのはカムアウトの正義が働いているからだと思います。でも、匿名性を保ったままの冷静な議論というものもできるはずですがねぇ。一人でヤーな気分になってたり、友人、恋人とワタシの悪口を言い合うくらいなら鬼が島へ!今のところは鬼が島の書き込みって、ほとんど身内なので、純粋な反応というのはイマイチ分かりませんから。
 で、今、思いついた一つの原因が……「掲示板がプロすぎる」。業界に名を馳せてらっしゃる方のご来駕が多いということで敷居が高いんでしょうか。うーむ。(2000.9.26)

 インターネット炎上の怖さを分かってない!! (ないものは怖がれないという)今思えば、「ブスだからそれがどうした」という話ですが。この頃から何か活動でも何でも目立つことをする奴はブスという根強い呪いがあるのが見て取れますね。いや、ホントに他人の顔面がどんな出来かなんてどうでもよくね?

 と、いうか、ここで書きたかったのは「顔出し」とか「カムアウト」が生む権力性ですね。そりゃ、電子の海の中のどこのだれか分からない人が書いてることよりも実在に結びついている人の言ってることの方が信用される。そりゃ、「責任を取る」ことができるし求めることもできるのだから仕方がない。とはいえ、匿名性を保っている意見をことさらに軽視したり、ないがしろに扱うのは違うんじゃねーの?という話。なんか、そういう危険性を2000年当時から感じていました。

 ちなみに文中の春乃かおりってSPA!とかに出てたレズタレントの走りなのですが、コミュニティの情報をピックアップしては小バカにするという最低なゲイ風で、学生サークルの抗議もガン無視の上、引退して男と結婚して逃げ切るというクソオブクソでした。顔出しカムアウトの先駆者がこんなだなんて日本のレズビアンの歴史上での超汚点ですよ。ほぼ忘れ去られてますが。ワタシは忘れない!!

 カムアウトの権威性はそんな風に問題なのですが、そこに容姿の良さが乗っかると「は?」ってことが「いい話」として流れてきて消費されてたりするので震撼しますね。また反面、匿名でも耳を傾けよう!……とはいえども、肝心の言ってることがクソだったら取り合う価値ないです。実害出たら通報&情報開示一択ですが。出会い掲示板に名前を変えつつ常駐しているバカと変わんないですよ。滅びよ。

ワタシは「ありのまま」がきらいです

 ありのままの情念ほとばしるサイトを再開しておいて嫌いも何もないもんだとは思いますが、ワタシは「ありのまま/自分らしく」という言葉にベッタリと貼りついた甘えが嫌いです。ありのまま、と一言で言っても「どのレイヤーでのありのまま」なのかは判定難しいのですが。ワタシが嫌いなのは2001年の夏に書いたようなこれ。パレードの実行委員の業務さなかで忙しかったはずなのに何を書いてたんだろうワタシ。よほど腹に据えかねたことがあったのだろうけど、忘れてしまっているので今のワタシにとっては大したことではなかったのでしょう。

その41:「自分らしく」の甘い罠 

 変態サイト(ココ含む)を渡り歩いてよく目にするのが「レズとかバイとか、男とか女とか関係ない!ワタシはワタシらしく在ればいいんだ!」という主張。うなずきかけて、「なんか違う」と傾きかけた首を戻すということが何度もある。
 自分にひきつけて考えれば、ワタシは「自分らしくありさえすればいい」という境地には全く至っておりません。カテゴライズはありとあらゆるメンドウな問題(グラデーションの分断、同一カテゴリー内での差異の消滅、うさんくさい連帯感など)を引き連れてはきますが、ラベリングから発生するプライド、そこから巻き起こる運動、それも大事だと思うのでっす。今だワタシはレヅとして生活し、レヅとして生活できず、レヅとして活動し、ゆえに挫折しつづけているのです。自分らしくあろうとしても、出社する時は、髪の色が明るすぎやしないか、短すぎやしないか、服がカジュアルすぎないか、そんなくだらないことに縛られています。
 確かに、「自分は自分よ!」と、言えるのはカッコイイ。まろうさんなんかがそういうカンジで生きていってるのはすんげー憧れる。いつかワタシもかくありたい。
 ただ、サイトに溢れる「自分らしく」の中の「自分」がどの程度、充実したものかは疑問が多い。人間誰しも確固として揺るぎのない自分らしさの種、は持っているけれども、芽生えさせるのにはそれなりの経験や思考が必要だと思うから。
 飲み屋で「自分は自分だから」と思考を放棄して、口半開きで女のケツを追いかけているレズには説教のひとつもしたくなる(ホントはしません)鬼レヅではあります。
 ホントは深い問題だけど、今回はさらっとね。長いこと徒然書いてなかったから、ネタがたまっていますのよ。(2001.8.13)

 もう20年近く前に書いたテキストだけど、そんな外したことは書いてなかったなぁと思います。ただ、流行の言い回しが「自分らしく」から「ありのまま」に変容しただけで。(だいたいアナ雪のせい)思考をしない「ありのまま」ってただただ野放しの欲望があるだけで、人に対して負担を強いるものが多い。互いに「ありのまま」を垂れ流し合えればそれはそれで良いのかもしれませんが、たいてい立場の弱い人によりその負担がのしかかるじゃないですか。やだー。

 オノレの心地よい「自分らしさ」とか「ありのまま」がなんで心地よいのか考えないと人に迷惑がかかるし、何よりカッコよくないよ、という話でした。

 まあ、ワタシも怒りや悲しみのおもむくままにTwitterではありのままのレズおばさんなワケなんですが。昔よりはかなり抑制が効くようになったとはいえ。気をつけねば。

#おうちでパレード ?

 ワタシはパレードにはいろいろな思いがある。その辺をつらつら語ると煩雑すぎるし、誰も読まないと思うので昔のサイトに書いた文章を引用しようと思う。昔、100近く書き散らしていた「鬼の徒然」というコーナーのエッセイの1つ、ワタシが実行委員を務めた2001年の秋のテキストだ。(昔の東京のパレードは真夏に開催されていた)

その45:パレード雑感 

 本当のことを言います。ワタシはパレードに参加して「心から楽しい」と思ったことは実は一度もありません。がーん。今に至るまでの参加歴一覧を下に示します。
南パレードの第1回 国際ビアン連盟の下働き
(このときが一番楽しかった。でも、下働きってトコロで不完全燃焼)
南パレードの第2回 UC-GALOP(UPPER CAMPの前身)の一員
(当時のカノジョと離れ離れで参加、かつミックスの限界を見る)
南パレードの第3回 ミニコミLABRYS DASHの取材
(世にも恐ろしい「レズのくせに」発言のために楽しいドコロではない)
砂川パレード 一般参加者として撮影禁止ゾーンを歩く
(昨年の徒然を参照、とてつもない虚脱感に襲われる)
福島パレード 実行委員
(写真撮影のために最初の300mだけ歩いて、ソッコーUターン)
 まあ、実行委員ってことで、みなさまに参加して欲しいってのが本音でした。とはいえ、「参加することが正義だ!」つー中心教義があるようなサイトにウチがなるのもヤでした。ワタシ自身がパレードについては複雑な思いを抱いていましたから。
 でもでも、何でワタシがパレード実行委員をやったかといえば、パレードがどーしたって業界最大イベントである事実はゆるぎないからです。パレードについてあーじゃこーじゃと世の片隅で吠えてもパレードはなくなりません。だったら、乗っかってワタシが思うところの「一番お得」な姿にパレードを近づけるのがいいんではないか、と。 実際、パレード効果はすんごいです。「実行委員」の肩書きでいろんなことができます。プロのイラストレーターもタダで描いてくれるし、ミニコミが喜んでスペースを割いてくれるし、ボランティアさんも言う通りに動いてくれます。「ワタシってスゲエ?」って思い込みそう。これで、昔っからホソボソとミニコミや個人サイトで文章書いたりする零細活動をしてなければ、ウッカリ勘違いしそうなほどです。ちなみにスゲエのはパレードであって、委員ではありません。チーン。
 正直、途中で怖くなった。コミュニティのあちこちが協力体制に入っていくので、「パレードファシズム」に荷担してしまっているのではないかと空恐ろしくなりました。ホントにコミュニティのためになるムーブメントなのか何度も自省しました。ちゅーても、「パレードはハッピー!」とかって対外的には言ってましたが。てへ、二枚舌。 今後、とんでもない事件でも起こらない限りパレードは膨張傾向を続けていくだろう。世の流れがそれを望んでいる。ただ、パレード的なものとそうでないものとの溝がどのように変化してゆくか、ワタシはそれが気になる。
 とどのつまり、ワタシは「パレード的なもの」には与するのだが、「パレードそのもの」には乗り切れない、んである。(2001.9.25)

 ワタシ、日本で初めてと言われるパレードにも参加してたんですよ。国際ビアン連盟というグループのパフォーマンスのお手伝いとして。先導のフロート(というかバンに乗って曲が変わるごとに小道具のフラッグやセンスを渡したりキッカケ出したりする。Nさんと一緒にやってたんですよ。こういう細かい事柄も注釈しないと意味が分からないほど時間は経ちましたね。2001年のころは注釈も何もなくても自明のことだったのですが。

 再録のエッセイですが、今読み返すと実行委員までやっておいてこの冷めっぷり。わりと昔のレズビアンの参加者はこういう保留を置いた感覚を共有していた気がします。「私たちのお祭りだけど、私のお祭りじゃない」というか。

 世代的な隔たりを説明するのってホントに難しいですね。この頃関わってた人たちはあんまり、というより全然キラキラしてなかったし、ほこりっぽくて汗臭かった。映画祭のスタッフの方がはるかにオシャレで人員も確保できていた。どこも一般企業はスポンサーになるわけないし、二丁目もまだまだ冷たかった。そんな時代のパレード前世紀、パレードに参加するのはそうそう(気持ちの上では)簡単なことじゃなかった。ワタシがサングラスを外して参加するようになるのもだいぶ後だったはずです。

 その気持ちはコロナ禍吹き荒れるこの世界でオンラインでパレードに対して賛意を示すものとは異質ではないにせよ、大きく違っていたのだと思います。