百合とBLのクィアベイティング性について(その1-②)【配信再録】

 そういう風なことを踏まえるとちょっと面白いのと怖いのとのの両方両面があって。ずっと動きを追っているのが二丁目の元々レズバーだった「Ancor(アンカー)」。百合ブックカフェみたいな感じに変わって営業するようになったんです。「百合の聖地」とまでは言わないんですけどなんか結構界隈で賑わってて……。

 ちょっとあのいつの間にか一枠終わってたので。えーと今15人。結構今日来てんね。もう一枠行こうと思うんですけど。もう本当うちさ、こういう誰も得しない話題が多いので。お茶とかも来ないしね。えっと、どこまで行ったっけなんか……。

 界隈で位置が危ういなと思ってて。あそこをやってるのってagit系列で。二丁目に「百合の小径」とか、「Lロード」とか、くそダサい名前が付いている小路があるじゃないですか。あそこのちょっと南からの入り口の左側に「agit」ってあって。けっこう前からあるお店。あの系列で「艶櫻」とか、Aの頭文字付いてるレズビアン系のお店ってだいたいあそこ系列なんです。なので「Ancor(アンカー)」もAなんですよ。で、そういうところがあるから、「バ美肉寄り百合」とかも(当事者が)許容してるみたいな風に取られるのがちょっと怖いなっていう。

 さんざん「バ美肉寄り」(への悪口)言ったけど、当事者が当事者のために描けばいいってもんでもなくて。

 私が結構好きなマンガで森永みるく、さんってマンガ家さんが描いた。「百合姉妹」の頃の「くちびるためいきさくらいろ」とかね。その後「ガールフレンズ」とか別媒体で描かれて。名作描かれたんです。(作者は)めっちゃノンケなんですよ。めっちゃノンケのお姉さんなんですよ。でもね、そういう人もちゃんとね。ちゃんとまともに、まともって言ったら言葉は変なんですけど。目配りしてキャラクターを掘り下げて書くと、別にノンケだろうと関係なくて。当事者だからちゃんと書けるってわけじゃない。やっぱりこれは作家さんの技量なんだなって。(注:リアルタイムの雑誌で読んだので、ものすごく過大評価しているかもしれません)

 別にLのためのLによる表現ばかりが良いものでは決してない。というのはワタシの揺るがぬ意見ですね。

 多かれ少なかれ「百合」って女性同性愛表象をどうしても消費しちゃってるんですよ。それはどういう形で消費してるのか、誰を対象にして消費してるのか、っていうことで幅があって。そして読者それぞれに受け取り方が変わってくるんじゃないかな、と思ってます。

 私はわりとさっき言ったLのための表現に振っているものを高く評価しがちなんですけど。Hかどうかよりも。まあ、こっち(H)は最近そこまで興味ないんですけど。まあ……、あのー……読んでますよね。昔ね「百合姫ワイルドローズ」っていう別冊があって。それはエッチだけ、短編だけ、で集めてる、っていうのがあったんです。別冊です。それを「資料です!(キリッ)」と言いつつ毎号買ってました。今も本棚にあります。(注:数年分の「百合姫」は研究者に譲ったのに)

 で、話は戻るんですけど。「ファンタジーと現実を混同するな!」というわりに混同する感じの消費者、コンシューマーは当然いるんです。けれど混同するも何も百合という表現の歴史を辿っていくと中興の祖の「マリア様がみてる」あるわけですよ。で、さらに源流をたどっていくと吉屋信子さん。吉野信子大先生ですよ。

 パートナーと養子縁組したからね。もうガチレズですよ。(注:上記の研究者いわく「同性婚したい」と手紙に書いて、相手に「そういう目立つのはちょっと」とかわされている、とのこと)遺族によってきわどい手紙は処分されたのではといわれてますが。愛好者には「そもそも百合の祖はガチでした」っていうことを私は声を大にして伝えたいですね。

 まあ、ここで百合の話はひと段落、なんですけど。(配信の)タイトルにも書いた。あのBLの方の話。

 これ構造が百合と非対称なんですよ。BLって、その起こりからして百合と違っていて「LのLによるLのための表現」、「LLL」ではなく、の「GGG」ゲイのための表現を起源にしてはないですよね。って昔は「やおい」とか言ってた訳ですけど。そうとう大きく違うところです。

(吉屋信子についてのコメントが来て)あ、こんばんは少女小説の大家です。大家ですよ。うちにも「屋根裏の二処女」がありますからね。ちょっと「花物語」は手放しちゃったんですけど。

 で、BLって言うか「やおい」ってイチからGGGじゃないんですよね。やっぱり女性がその何でしょう……。男性と女性だと、現代的なパワーバランスがあるので。(女性では)実現しえないものを男性同性愛の表象を使って表現していく……みたいなのがあったと思います。私の本棚に一冊だけ、昔の「JUNE」があるんですよ。昔の「JUNE」ってレンジが広いですよね。クソみたいな小説もあれば、ロンドンのゲイライツの活動家が出てくる小説もあったりして。なんか昔の「JUNE」は懐広かった、みたいな感じですね。だけど、これもGGGからじゃなくて、(非当事者が)その表象を、これも当然、「百合」と同じく消費してるんです。

 元々、当事者が界隈にいなかったのもあって、もしかしたらちょっといたのかもしれないですけど。あんまり認識されなかったのもあって、性的消費をしてるっていう意識がちょっと低いんですよね。その低さってなんでしょう。

 これは私の私見なんですけど、糊塗するかのようにきれいに塗って、「私たちはそんなHなだけじゃない、歪んだ形で一方的消費してる訳ではないですよ。ちゃんとした作品(鑑賞)ですよ」みたいな。取り上げられ時にいわゆるポリティカリーコレクト的に良い(とされる作品)ばかりが取り上げられるきらいがあって。それが昔のよしながふみの作品であったり、雲田はるこの作品であったり。まああれ(よしながふみの「ジェラールとジャック」)も(未成年の)男娼を買うところから話が始まってるので、本当にポリティカリーコレクトかって言ったら……。最終的には二人の合意、お稚児さんとお客ではなく対等な立場で、と話は終わるんです。

 でも、「この界隈はそんな下品なものじゃないですよ。こんないいものもありますよ」っていうふうに提起されるものが(優等生な)まあそういうものばっかりであって。

 実際、「試し読み無料!」みたいなウェブで売れてる漫画って全然違うじゃないですか。もう、酔っぱらってるところに付け込んでほぼ強姦とかなんか。あと百合では少ないけれども「オメガバース」とか「サブ/ドム」とかの話がすごく多いなっていう感じがして。それは私からしたら(同性愛表象で異性愛をなぞる?のは)どうなんだろう(グロい)って思うんですよね。

 で、そういうふうな……ちょっと倫理的にまずいんじゃないの?っていうBLについて、誰か警鐘を鳴らしたりとかする人っているのかなって?と思うんですけど。界隈に嫌われるだろうからまあ言わないのかなと。

 あと何でしょう。百合でね。あんまりひどいことを描かれたら、私たち、「私たち」って急にね、主語が大きくなりましたけど。わりとレズビアン傷つくじゃないですか。

 で、百合ファンダムでは創作してる人、消費する人、実は視野の端にね、レズビアンって目に映ってると思うんですよ。だから定期的に「百合とレズは違う」みたいな論争が起こって。「あの、それもう二十年前から、その前からやってない?ちょっと勘弁してくれる?」みたいなのが繰り返されるわけで

 でも、BLだとそのゲイの姿ってほぼ(消費の視界に)ないな、って。

 ゲイでBLに言及する人って基本的になんか肯定してる人がなぜか多くて。っていうのも多分当事者ゲイからBLが視野に入る人って好きで視野に入れてる人が多いんだと思います。なので、あの界隈まあ良くない言葉ですけど「腐女子」に嫌われたくない。一緒に楽しく消費したいっていう人が多いからそうなってるんじゃないかなって。私はちょっと思ってるんです。

 それと、やっぱり(BLを)作ってるのは何といっても界隈女性ばっかりなので、ゲイからしたら、なんか変なこと書かれても、あんまり痛くも痒くもない程度ではないかと思うんです。

 レズビアンが「なんか、こんなこと書かれた最悪!」っていうほどはダメージないのかもしれないですね。っていうのはもうゲイの創作物っていうのは、田亀源五郎先生とか児雷也先生とかね。野原くろ先生とかいて(GGGが)ジャンルとして成立しているからだと思うんです。

 で、私がちょっと思うのが百合もBLもなんですけど。これはねあくまで私の考えで、そうじゃなきゃいけないって話じゃないですけど。(注:ここから「にじり寄る」話です)

 映画に「ベクデルテスト」ってあるじゃないですか。

 映画とかで女性がわりと(キャラクターとして)ひどい扱いを受けているっていうことが多くて。で、ちゃんとジェンダー不均衡について目配りできるかどうか、っていうのをいくつかイエスノーで答えていって。「この作品ベクテルテストの要件満たしてるね」とか「これは全然駄目だ」というようなテストがあるんですよね。

 百合とかBLとかでも、そういうベクデルテスト的なもの。例えば「その権力/社会的な背景を利用しているか否か」。さっき言った上司と部下とか先生と生徒みたいな。そういう権力の勾配を使って性的な関係を結んだり、結ぼうとしたり、強要したりしてるかどうかとか。あとは「未成年を過剰に性的に描写していないか」っていう風な。

 いくつかそういうベクデルテスト的なものがあってもいいんじゃないかなって思います。

 もちろんそのベクデルテスト的なものをパスしてないといけないってわけじゃもちろんないです。ただ創作する人、鑑賞や消費する人とかに少しそういう意識があった方がいいんじゃないかなって。

 ただ、すこし私が難しいなって思うのが、その「未成年の性的な描写がダメ」って、まあダメなんですけど。「百合」って基本的に「少女」、未成年をキャラクターとして動かすことがすごく多いですよね。大体、中高生が主人公。成人同士も最近結構多いですけど。

 そういう風な傾向があるので、未成年を性的に描いているかどうかっていう話をすると。それを厳格に運用したりとしたら、なんか「百合」というジャンルの8割が消えてしまうのではないだろうかという怖さはあります。

元々のベクデルテストっていうのは……。

(以下、ウィキペディア読み上げ

ベクデル・テスト(英: Bechdel Test)とは、ジェンダーバイアス測定のために用いられるテストである。テストではあるフィクションの作品に、最低でも2人の女性が登場するか、女性同士の会話はあるか、その会話の中で男性に関する話題以外が出てくるかが問われる。2人の女性に名前がついていることも時としてテストの条件に付加される。

もともとは映画を評価するために用いられ、現在ではあらゆるフィクションにおいて用いられている。現代の映画の半分程度はこのテストをパスしないと言われており、これは映画産業で働く女性の比率が低いことや、業界人の観客の好みに対する想定ゆえであるとされている。批評家はこのテストは総体として考えた場合は有益だと指摘している。個別の作品については、性差別と無関係な理由でテストをパスしたりしなかったりし得る。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%82%AF%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88)

 っていうことなんですけど。百合やBLの倫理的なテストっていうのも何でしょうか。言葉ばかりだとか「アンチ表現の自由派」みたいな受け止め方をおそらくされるんですけれども。そういう視点があってもいいんじゃないかな?っていう私の提言でした。

 そのベクデルテスト的なものをパスしなきゃいけないってわけじゃないんですよ。ただこういう視点もあるよっていうのがコミュニティ……ファンダムに導入されることは決して悪いことじゃない。だから、さっき言った「総体として有益」というやつ、になるんじゃないかなと私は勝手に思ってます。これはね、実際に創作する人に聞いてみないと分からないですけど。

 あとはそういう視点が導入されたときに、無心に「ユリセ」って言われるような性的描写を楽しんでいた人にはちょっと受け入れがたい面もあるかもしれないですね。何ていうんでしょうか、頭の中にワーニングが出ちゃうような。ただ、ゲイコミックで良くある「これを実際に実践するとHIV感染の危険性があります」という但し書きみたいなもんで。ちょっと最初は引っかかると思うんです。けど慣れるんじゃないかって。だいたい読み飛ばすでしょ、見飛ばすでしょ、そんなもん。でもなんかそういう小さいストッパーでもいいんじゃないかな、っていうのが、もう、しつこいけど私の意見です。

 ちょっと次回はあの再開した筋トレの話でもしてね。ベクデルテスト的なものの具体的な話はいつになるかはちょっと分からないかもしれないです。友達にも聞いてみたいです。

 長々と。今日なんか人多かったね。67人だって。今は18人もいらっしゃいますけど。本当に長々とありがとうございました。それじゃまた、来週金曜日。またtwitterから告知しますので。また、お会いいたしましょう。じゃあ、皆さま安らかな夜を。お休みなさいませ。

→1時間半話したうちの後半。 2022.3.21配信

 あまりにも本筋から外れた脱線の省略、話を追うのに必要な補足、話の筋の錯綜の編集、冗漫な繰り返しの削除など、手を加えております。

追記:さすがにツイッターで「3P痴漢百合(女子高生)」が流れてきたときはびっくりしました。

百合とBLのクィアベイティング性について(その1-①)【配信再録】

 まだ、あのー薄暗いままです。なんかね新しいライトつけるのはちょっと怖いので、薄暗い感じなんですけど。
 なんとかキッチンの方とかユニットバスから漏れてくる光を下にお話ししております。コメントしても差し支えない人は「聞こえてる~」とか教えてください。

 前々からちょっとクィアベイティングの話はしたかったんです。これ話そうと思ったきっかけが、多分半年以上前になると思うんですけれど。あのポカリスエットのCM、結構話題になったことがあるじゃないですか。あの結構セットにもお金かけてて。女の子が、まあポカリスエットといったら女子、女子高生。制服女子高生ですよね。その制服の高校生と思しき子がお花ざかりの学校の中を走って行って。最後に体育館かなんかなんかで女の子同士、手を取り合ってくるくる回ってEND。というのがありました。それをツイッター上でゲイの男の子と「なんかあれいいよね」って話した時に、私は「ちょっとあれ微妙なんだよね」、「ちょっとクィアベイティングじゃね」みたいな話になって。それはその時でふわっと終わっちゃったんですけど。

(あと喋りやすいので、適当にコメント入れてくれたほうがありがたいです。最近、某Mちゃん、ツイッターで相互フォローしてて、ゲーム配信してるんですよね。で、私一人がこうやって配信してる時にコメントあったほうがやりやすいからと思ってコメント入れるんです。けど気がつくとね、だーっとね十何行以上下手すると数十行私のコメントだけで。「これちょっとやばいんじゃないか」と思っていて。この間、Mちゃんと会う機会があって。どっちかって言うと呼び出し、って感じだったので。あのー何でしょう。えっと、呼び出しで「ちょっとアレだと困るんですけど」とやんわりと言われるのかな。って、ビクビクしながら出かけて行って。別にそれはそうじゃなくて、かわいそうな動物の私にご飯をおごってくれるだけだったんですよ。)

 さて、きっかけのもうひとつ。去年のワタシのプッシュマンガ作品のうちで「作りたい女と食べたい女」ってあったじゃないですか。主人公がまあ古い分類ですけど恐らくレズビアンかなっていう感じ。売れてるいわゆる「百合」っていうカテゴリの中では久しぶりにこう「Lのためのマンガ」と感じられるものだったんですよね。ただフォロワーさんに指摘されたんですけど以前に書いてたのがBLで、セックス描写とかもかなりあって「ゲイ表象をちょっと性的消費してる部分が強いんじゃないか」っていう指摘をされて。
 あの作者(ゆざきさかおみさん)トータルとして(過去にさかのぼって別作品も含めて)100%罪がないって変なんですよね。あり得ない。あの作品(「作りたい女と食べたい女」)でも100%政治的に素晴らしく誰も傷つけない表現っていうのはちょっと無理ですよね。で、その上でどうしたら……あの安っぽい言い方なんですけど、「より良い表現」ににじり寄るれるのか。を、考えたい。なんか簡単に「そっち」(ポリティカリーコレクト100%)に「ハイ、行きます!」みたいにはならないので。
 「にじり寄る」って言葉をね、考えたい。

ちょっとカフェラテでも飲みながら話していこうと思います。

 今日は「100%の表現」ってないよね、っていうのと、どうやったらその「より良いっていう表現」ににじり寄れるのかということを前提としつつ(クィアベイティングの)話をしたい。ので、今日はたぶんその1で終わっちゃうと思います。
 これはシリーズでパート3くらい行くかなって感じです。

 実は去年、結構本を処分しちゃったんです。なので本当はこの話も実際に持ってるマンガとかを例に取りつつ話せたら良かったんですけど。手元に残るのって表現としてより良いポリティカリーコレクトな方のマンガなんですよ。ウェブで売れてるとか、店頭で平積みになってたとか、ちょっとエッチそうとか。そういうフックで買った本って残らないので。今、私の書棚にあるBLは優等生な感じなのだけが残っています。「ちょっとあのー、これは駄目なんじゃない?」って批判っていうか対比させるために。「これは同意なしのセックスとかポリティカリーコレクトとして弱いんじゃないの?」っていうものとして実際に提示できたら良かったんですけど。またの課題で。

 でですね、話は元に戻るんですけど。「百合」のクィアベイティング性。この話をするときツイッター予告でキュキュッと「クィアベイティング」って書いちゃったんですけど。なんか一般的な検索したら、日本語でまとまって「これがクィアベイティングです」っていうの解説を見つけられなかったんですよ。(論文検索ならあるかもしれない)
 どっちかっていうと海外のセレブニュースみたいなやつの中で、セレブが軽率にやった「女同士でキスしてみた」が非難される時にクィアベイティングだって言われるのを見かけるかなと。ワタシなりの解釈だと実際はクィアではないとか、クィアである実態?が全くない人とかが商業的にクィアであることを匂わせたりする、みたいなことをクィアベイティングっていうんじゃないかなと思ってます。

 もともとなんかベィティングっていうのが何でしょう。釣りのルアーとかのウニャウニャウニャウニャってなってるやつをベイトって言うじゃないですか。ああいう「おびき寄せる」ようなものの事いうみたいなんですけど。というのが大前提にしてて、ワタシのこの解釈もしかしたら間違ってるかもしれない。(ごめんなさい)
 なんか日本で、まとまった用例がなんか見っかんないんですよね。
そもそもなんかクィアという言葉自体がまだ浸透してないっていうか。クィア自体が……定義。こういうものに定義ってね。もともと変態って言葉ですから。変態にね、かっちりした定義がないんですよ。
 なのであのクィアベイティング自体も、あんまりかっちりした定義が馴染まない言葉かなとは思います。


 まあなんですよ。一昔前のt.A.T.u.みたいなもんだと思えばいいと思います。で若者はt.A.T.u.知らないよね。あのロシア初?のあのクィアベイティングガールズ2人ユニットです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/T.A.T.u.

 クィアベイティングなんですけど。ポカリスエットのCMとかを例にとっても、あの「百合」っていうあの装置で消費者を引き付けるっていうことは割とカジュアルにされてると思うんです。最近ワタシのアンテナでちょっとざりざりざりってちょっと嫌な音を立てたのがそのポカリスエットのあのクルクル回るCMだったんですね。その百合がそういうふうにクィアベイティングである……。これをクィアベイティングって言っていいのかどうか、っていうなあの議論もありと思いますけどそれはとりあえず置いといて、ワタシの中でクィアベイティングなのでちょっと話を先に進ませます。
 で、男の子同士だとそういう風に同性愛のような姿を借りて、ポカリスエットのCMで出てくるっていうことがまあないですよね。その時ワタシの相互フォローさんもが言ってたのは「男子高校生というと洗濯物がいっぱいで、とにかくたくさんご飯を食べるだけで。なんか男子高校生だってクルクルしてもいいじゃないか!」って。ワタシはなんかそうだそうだって「男子もぐるぐる回れ!」って感じでしたが。
 実際にくるくる回るのって女の子二人なんですよね。くるくる回るだけなのでこう百合とかガールズラブみたいな言葉はCMの中では一切使われていないですけど。
ただ、視聴者は勝手に女の子同士の友情だと受け取ったり、勝手にレズビアンだと思って勇気付けられたり。若くてきれいな女の子二人の表象。そういう同性愛的な表象って、絵になるっていうか……。なんか金になるんだなって。金になるんだなって(2回言った)。つくづく思いました。
 そして、その類のきれいな表象が「百合」っていうジャンルの中で、どんどん強化されていると思うんです。百合っていえば女性間の同性愛的な表象である。っていうのを社会的な「LGBTとか言われるような人・もの・動き」とかと結びつけない傾向がすごく強くなってきてると思うんですね。

 でも結局は「百合」って女性間同性愛表象を使っちゃってるっていうのは事実です。
なんかそれは美しいカップルだろうとワタシみたいな50代シングルなワタシも同性愛表象。表象の一部ではありますし、間違いございません。

 で、どう転んでも「百合」は同性愛表象であることには違いがないと思うんですよね。で、オタクっていうかそういうフィクションの物語を好む人がよく言うのが「ファンタジーと現実は別物」っていう言い方をするんですけれども、じゃあ何で現代日本の実際にあるようなあの書割めいた、あの物語の組み立てで、実際にいる女性二人のような姿を借りてあの表現をするのだろうか?っていう。
「好きだから理由はない」ってというかもしれないですが、好きだったら、好きだからこそ、そこに絶対理由があるんですよ。うん。

 で、ポカリスエットのCMね。フォロワーさんの周りでも議論してました。そういうのがどんどん表に浮かび上がってくればいい、みたいな。ワタシの観測範囲が悪いのかもしれないけれど、そういう議論があんまり表立って議論されなくって。なんとなく「いいCMでしたね!」で終わっちゃって。「えー!?」みたいな。

 で、元に戻ります。
 ファンタジーだろうと何だろうとやっぱり同性愛表象っていうものを使ってるのは違いがない。現実とやっぱり繋がってるんですよ。ワタシはね、一時期まではツイッターのトピックをフォローすると自動的にそれに関連するツイートが流れてくるっていうのあるじゃないですか。それで一時期ちょっと「百合」っていうのをフォローしてたんですけど。もう「ヤバいね。気持ち悪いね」みたいなが多くて。
 気持ち悪いっていうのって、別にあからさまなセックスシーンがあるとかじゃなくて。これが男女間だったら超ドン引きみたいなやつが普通に消費されていて。


 例えば「女性上司と」って。これも女性上司っていうのは変な言葉。男性の上司って無徴なんだけど上司に女ってつけないと、それを表せないっていうの。すごくあの女上司ってのはジェンダー的にね興味深いというか、あのアレなんだなっていうふうに思うわけなんですが。

 また話がずれました。
 その女上司と新入社員みたいな関係性でその上司の方がその権力を盾に取って、一緒のプロジェクトになるように仕組んだりとか出張で「あっ、間違えちゃった」とかってツインやダブルの部屋になるように仕組んだりとか。いやマジで気持ち悪いじゃないですか~。
 あと学校の先生と生徒とかね。権力の濫用以外にも「普通に犯罪ですよ」みたいなやつが多い。人並み外れて執着心が強い、ストーカーみたいな。気付かれてないだけのストーカーみたいなのが「純粋で一途な女の子」っていう描き方されて。「百合って無法地帯!」と思えるようなのが散見されてしまって。


 それから「女からセクハラするなら大丈夫だよ」みたいな作品ね。ちょいちょいありますよね。

 そして、百合は女なら(セクシャルハラスメントも)無罪っていうのを、かける、女の二乗みたいな感じで、ヤバさも二乗!もろに犯罪!みたいなのがありますよね。例えば、「酔っぱらっているから持ち帰りOKでセックスもOKだよね」、って……OKなわけあるかああ! でも本当そんなんですよ。
 もう百合、犯罪行為が横行しています、百合創作。そういうのをね見慣れると界隈そんなもんだからいいんだみたいな感じになっちゃうかもしれないですけど。いやいやいやいや。表象(に参照)されているこの現実の生身の人間たちってどうなのよ、と。

 百合って「百合姫」とかがね、「百合姫」じゃない。創刊する前に「百合姉妹」ってあったんですよ。4号だけで終わったけど。あの「百合姫」が創刊された頃とかって、当時当事者の作家さんがいたんですよ。そうするとまあ表現も当事者が読んでもキモくないっていうか、勇気づけられるような、「こんなのあるある」みたいな話。そういうのがあったんですよ。うん。
 それが「百合姫」も時代が下ってくるにつれて変わってきて。戦犯は基本的に「百合男子」だと思ってるんですけど。男子目線の「百合」も増えてきて。最近はホントにキャラクターがめちゃめちゃ「バ美肉」なんですよ。あのバ美肉って言ってもワタシのフォロワーさんだと知らない人がちょっと多いかもしれないですけど、「バーチャルで美少女に受肉」の略で。美少女のアバターでVチューバーするとか。(見た目美少女だけど)中身はおじさんだったりするのです。
 百合をやってるんだけれども行動原理とか言動がめちゃめちゃおじさんが女子高生というスキンをかぶってくちゅくちゅイチャイチャしてる、っていうね。……イチャイチャの前にクチュクチュって言っちゃった。

 なんかさあ、もうさ、おじさんなんだよね。ほんとね、女子高生同士なのに何でこんなにとってもバ美肉おじさんなんだろう……みたいな作品が。増えたなと思ってます。あとはR18でもないのに百合はカジュアルにエッチなものだからみたいな感じで。ストーリーの中で「ちょっと早くない?」という段階でエッチなことをしてラストにもう一回みたいな。いやいやいやいやいや、せめてR18にして。みたいな感じなんですよね。(エッチを描くことは否定しません。キリッ)
 バ美肉に限らず界隈で好まれる表現っていうのがあって、こないだ「百合姫」の初期くらいの頃から描いているあの漫画家さんがいて、絵柄変わったの。前はしゅっとした感じの等身の高い感じの絵を描いてた人なんですけど。丸っこくなってて、めっちゃ巨乳になってて、顔の造作とかもちょっと幼くなって。えーこの人こんな絵を描くようになったんだって驚いて。ちょっとね、怖い感じがしました。

→1時間半話したうちのアタマ30分。 2022.3.21配信

 あまりにも本筋から外れた脱線の省略、話を追うのに必要な補足、話の筋の錯綜の編集、冗漫な繰り返しの削除など、手を加えております。話の途中なので伏線回収もあるよ。
 まだまだ続くよ!

追記:「作りたい女と食べたい女」はポリティカリーコレクトに寄ってるがゆえにいろんなものを背負わされすぎだと思います……。

ボディポジティブが分からない!

 そのうち詳細書くつもりではいますけど、ワタシは数年前からいわゆるダイエットに取り組んでいます。当初は健康診断で指導が付くくらいの軽肥満っぷりでしたので「美の規範」からの要請というよりは「健康」からの要請だったわけですが。(「健康という規範」という観点もありますが、ここではスルーします)

 ダイエットに取り組んで、食事を制限して筋トレ始めて、BIM(ボディマス指数)で標準体重域に入るのにはそんなに時間がかからなかったと思います。ただ、見た目の「感じ」にワタシは納得いきませんでした。それと、ワタシはもともとジムに行くのが好き。筋トレ継続して「納得のいく仕上がり」を求め始めました。……で、愚か者が陥りがちなことなのですけど、ワタシは筋トレ楽しすぎて当初の目標ではなくパワー系の競技スポーツを念頭に置いたトレーニングに重点を置くようになります。ボディメイクではなく全身の協調性を使って重量を挙げる的な。で、まだ大会には出ていないのですが、マスターズのカテゴリーなら出ても恥ずかしくないところまで記録を詰めてきました。(トレーナーはマスターズじゃなくて一般でも行けると言いますが、それは勘弁してほしい)

 と、競技を念頭に置いてトレーニングしてたのですが、ふと頭に浮かんだのが「階級制スポーツなんだから階級下げた方がお得」……ということで、従来の週2-3回のジム通いに加えて割と厳密な食事管理を始めました。具体的には1日1400kcal目安で摂取、タンパク質は60~100g目安というカンジで。すると、わりとするする体脂肪が削れてくるんですよ。ワタシには毎朝、鏡の前全裸で体重量るルーチンが存在するのですが(一喜一憂しすぎるので体重量るのはパスすること多い)、徐々に腹筋の縦のライン出てくるし、背中にもぬるい感じで鬼の顔が出始めるので徳の低い感じでうひゃってます。まあ、元々ボディチェックを「ナルシストタイム」と命名してたわけですが。

 でも、心の中で何かがささやくんですよ「お前はなぜありのままの自分を愛せないのか」と。確かにワタシは社会が要請するボディイメージに迎合している。(ちょっとマッチョ寄りだけど)でも、数年前の自分の体をありのままとして愛するのはかなり無理。できれば数カ月先の仕上がりをありのままとして愛したい。なので、半分イチャモンだとは分かってるのですが、「ありのままのプラスサイズモデルだってメイクしてんじゃん。ワタシの大殿筋だってボディメイクで練り上げた努力の結晶だよ!」とか小学生みたいなことを考えてしまう。ボディポジティブ運動は「社会における痩せ=美しいという規範」に対するアンチテーゼなのにどこに反発してんだよと。バカか。

 と、ワタシの中でそういうコンフリクトありつつも、全力を出して重いものを上げ切った時の原始的な喜びや鏡の前でうひゃれる楽しさが大勝して、ジム通いと食事管理続いてます。ジム通いは中断期間もあったけど2年超え、食事管理はちょうど4週間です(これ書いた時点、このあと2週間ほどスリップしてます)。筋トレやボディメイクは「何を目指してるの?」と言われがちなものですが、ワタシの中の理性を超える「楽しさ」のためにやっているとしか言いようがありません。万人にはお勧めしませんが、「身を焼く楽しさ」は確実にあるので、またこの辺のことは書きたいと思います。(特に競技スポーツについての考察など)

 それにしても、ワタシはボディポジティブへの理解が薄いし、根本的に分かってないのではと思うこの頃です。

「ブス」という役割 その①

 ちょっと前に志村けんが亡くなったじゃないですか。それで、YouTubeに違法アップロードのコントが大量に出たのですが。ワタシは「8時だョ!全員集合」の全盛期にコドモ時代を送ったので、親が見せてくれなくてもまあ、懐かしいなと。その懐かしさにつられて観てみたのですが、まあひどい。特に研ナオコへのブスいじりひどすぎてみるに堪えないコントが多かった。ナオコいじりもつらいのですが、それを見させられている当時旬のタレントが死んだ顔で笑ってるのがまたつらい。そもそもナオコはブスじゃない。標準より目が離れてて口が大きいのですが、小顔で痩せててオシャレ! って、それは「個性」というものでは? と、やはり違法アップロード?の「夏をあきらめて」を聞く2020年の梅雨、鬼レズ51歳。

「ブス扱い」されてたから目がくもってましたが、今見ると個性的でステキだと思います

 「ブスいじり」は現在も続いていて女芸人と呼ばれる人たちは「いかにうまくいじられるか」を競っているようで(ワタシはテレビを見ない生活をしているので最前線のお笑い事情にはうといのですが)。個人の選択というのはそうなのですが、女性に「美人/ブス」の役割を振って処遇を露骨に変えるカルチャーはあまり良いもののように思えないのです。

 「役割」と書きましたが、美人はともかく「ブス」の役割ってそれを名付ける人の恣意で行われるもので、あんまり現実の美醜を反映してないと思うのですよ。「ブス扱い」されてる女芸人の顔見ても大してそんなにブスには思えないし、なにより人目にふれる仕事してるからあか抜けてますよね。人によってはわりと好みだったりします。うん。なにより、路上でナンパかなんか断られた男が悔しまぎれに「ブス!」とか捨て台詞吐くじゃないですか。さっきまで「ワンチャンあれば……」とか思ってた女性によく言うね! って話ですが。

 で、ブスでもない女をなぜブスと呼ぶかなのですが。これ、分断統治の一種なんだとワタシは理解しています。ナンパを断った女性を「ブス」と呼ぶように「生意気」とか「ものを言う女」が「ブス」と呼ばれがち。そして、あからさまに粗末に処遇する。逆に「美人」はチヤホヤされるのですが目の前でブスが粗末に扱われているのを見せつけられてるので声を出しづらい。と、わりと良くできたシステムですよね。人の容姿への好悪はわりとプライベート領域に属すののでパブリックに問題としづらいですし。(例としてフツ顔なのにブス呼ばわりされる女芸人のこととか書いちゃいましたが、逆にフツ顔もしくは微妙なのに美人扱いされる役回りの人もいますよね……)

 本質的にはあまり変わりばえしない人間を容姿(実は現実の容姿ではない)で分けて物を言わせない腐ったカルチャーであって、ワタシはこれを有害なものだと思うのですが。それでも研ナオコと志村けんの夫婦コントの「なまたまご~」を見るとひきつけ起こしたように笑ってしまうのです。ホントにワタシってダメだなぁと思いますねー。

 ここまでは「男って最低!」ということで済ませて楽になるのが定石ですが、まあ古いレズとしてはこのカルチャーがやっぱりレズビアンにも染み込んでしまっていることを次回書こうと思います。(つらい)