理解と解釈の間

 ワタシにとって去年読んだ漫画のベストワンは「ヘテロゲニア リンギスティコ」だったのですが。その面白さのコア解説はまたの機会にとっておいて、その作中でとても印象的だった一節。

「私が理解だと思っていたこと 理解ではなく解釈だった 理解への壁は限りなく高い 今後はこの自覚を持って臨む」

ヘテロゲニア リンギスティコ1巻より

 駆け出しの言語学者に託した恩師の覚書の一節なのですが。これ、わりとワタシに響いたんです。レズビアンなんてマイノリティを長年やってると、「解釈」されること多いんです。「どっちが男役?」とかの類の。(もっと下劣なこと言われたりしましたが、今度の「マッハで走る」サイトはもう少し上品に運営しようとおもってますので、おほほ)

「私たちは異性愛者と変わりません!」と言われると「そうか、愛情あって一緒に住んだりするのは自分たちと同じだもんな」と「良心的」なヘテロセクシャルの人は思うようなのですが、そこが一歩目の陥穽。男性と女性とでジェンダー制度で色濃く区分けされている男女という「異種族」がパートナーシップ組むのと我らは違うのですよ。リードする方される方の役割固定はないではないのですけど。その分担はよりゆるいので「男役/女役」と言われても、「は?二人とも女だけど?」というカンジになるし、なんで常に男がリードすんの?って思う。(余談ですが、そのリードするべしという規範の強い男性が料理とか掃除とかで女性に「指導」されるとすぐにすねるのではと思ってます)同じで違うのですが、自分の中に異性愛の世界しか存在せず、分からないことを「自分」に引き付けて「分かろう」とする人はこの手の間違い犯しがちです。

 とはいっても、自分の世界にないものとか知識の薄いものについては同じような間違いを犯すものですよ。アナタもワタシも。人である以上。ワタシがその愚を犯した記録が以下。

その4:ボーイズ ドント クライ 雑感

 大分、前になるが、話題のこの映画、見に行きました。(いつだったっけ?>毛玉クン)
 残念なことに実録モノの「ブランドン・ティーナ ストーリー」を東京の映画祭で先に見てしまったワタシ。こちらの方の感想としては「ブランドン君ってバカな子」だった。何もワザワザ田舎に行かなくてもいいだろーに。60年代なら純粋な悲劇だったかもしれないが、90年代でアレはないだろー、と思ってしまったのだった。そして、ブランドン君が本当にTSなのか、大いなる疑惑を持ったのであった。(だってさぁ、クソ田舎で「女役割」にはまりきれないからって、いきなり「自分はGIDである」って決め込んじゃう子ってよくいるもん)
 んで、本編。ヒラリー・スワンクの熱演は素晴らしい!さすがアカデミー女優。だけどねぇ、ジェンダーズ・アウトローな人々を見慣れているワタシの目には、ブランドン君が「パス」するってーのが信じ難かった。つーか、いがちなタッちゃん。ヒジョーに女心をくすぐる手管の数々。「アンタ!女心ワカり過ぎ!!」と何度スクリーンにツッコミを入れたことか。(ヤッパリこちらを先に見ておくべきだった)
 ストーリーはさくさく進み、「ツライ」と話題だったレイプシーンもあっさり見ることができました(ワタシってヤバいかなぁ?)。
 ワタシの心を打ったのは、追われるようにして知人の納屋に寝泊りするようになったブランドン君のもとに恋人のラナが現れる。そして、ブランドン君、初めて服を脱いでカノジョとセックスする。ここでワタシは「ブランドン君、自分があるがままの女であることを受け入れたのね。良かったわぁ」そーゆー感覚で見てしまったのだ。
 真実のティーナ・ブランドンのセクシュアリティは分からない。しかし、映画ではブランドン君が「性同一性障害」である前提で作ってあったはずだった。でも、ワタシは「レズタチ、ジェンダーの揺らぎとレズビアン性の獲得」という解釈を無意識で行った。というか、そうやって観るのがワタシにとって自然だった。
 ワタシはレズビアンとしてのフレームから逃れることができないのだろうか。ノンケのバカさ加減にげんなりするワタシも見慣れぬものには、自分のフレームでしかモノを見ない。それを痛感した。(2000.9.14)

 というカンジでトランス男性の話を「レズ映画」として鑑賞してしまうというヤバいやつでした、ワタシは。まあ、そのヤバさを自覚してこんな文章をサイトに上げたり、当時友人のMtFに懺悔をしたりしたのですが。まだ隣接領域だから気づけたもののヤバかったですね。

※注 「ボーイズドントクライ」は1999年の映画。トランス男性(当時はこの表現はほぼなくて、性同一性障害概念が優位でした)がヘイトクライムで亡くなった実話をもとにしている。主演のヒラリー・スワンクはこの映画でアカデミー主演「女優」賞などとってます。恋人役のラナはクロエ・セヴィニー。それなりの予算感をもってハリウッドでトランスジェンダーの映画が作られたはしりだと思います。
「ブランドン・ティーナ・ストーリー」はその実話のドキュメント。再録の文章の通り、2000年の東京国際レズビアン&ゲイ映画祭(現レインボーリール東京)で上映されてます。映画祭といえば、2001年のサイトの「クイア デ ポン」というコーナーに「ボーイズドントクライ」のひどい感想寄せてます。あそこは古いサイトもそのまま残してくれているという貴重なアーカイブになっていて今でも読めます。リンクはこちらhttps://rainbowreeltokyo.com/2001/qdp/boys.html
さらに注ですが文中の「毛玉クン」というのは当時付き合っていた子です。ウッ

 こういう「間違った解釈」をどうすれば避けられるのかというと、冒頭の恩師の覚書の「この自覚を持って臨む」しかないのですが、それは心構えの話で、実際にはどうしたらよかろうかという。

 ワタシは個人的には理解できないことに直面したら当面「そうなんだー」で良いと思ってるんですよ。分からないものはあるがままに世界にある。まずそれを頭にしっかり入れておくのが大事なのではと。何でもかんでも「自分のことだと思って考える」のは違うと思いますね。そういう思考は公園の砂場でおもちゃを横取りしたこどもに「相手の気持ちになって考えなさい」っていうレベルの話で。大人は大人の理解があると思います。「自分の身になる」って結局は己のフレームから離れられないし。大人には大人の抽象的な思考があると思いますよ。そこへの扉の第一歩が「そうなんだー」なのではと。同性愛者と異性愛者は同じで違う。偉大な第一歩から地道に共通点を抽出したり、異質な部分を感じ取っていくのが大人の理解だと思いますね、ワタシは。