#おうちでパレード ?

 ワタシはパレードにはいろいろな思いがある。その辺をつらつら語ると煩雑すぎるし、誰も読まないと思うので昔のサイトに書いた文章を引用しようと思う。昔、100近く書き散らしていた「鬼の徒然」というコーナーのエッセイの1つ、ワタシが実行委員を務めた2001年の秋のテキストだ。(昔の東京のパレードは真夏に開催されていた)

その45:パレード雑感 

 本当のことを言います。ワタシはパレードに参加して「心から楽しい」と思ったことは実は一度もありません。がーん。今に至るまでの参加歴一覧を下に示します。
南パレードの第1回 国際ビアン連盟の下働き
(このときが一番楽しかった。でも、下働きってトコロで不完全燃焼)
南パレードの第2回 UC-GALOP(UPPER CAMPの前身)の一員
(当時のカノジョと離れ離れで参加、かつミックスの限界を見る)
南パレードの第3回 ミニコミLABRYS DASHの取材
(世にも恐ろしい「レズのくせに」発言のために楽しいドコロではない)
砂川パレード 一般参加者として撮影禁止ゾーンを歩く
(昨年の徒然を参照、とてつもない虚脱感に襲われる)
福島パレード 実行委員
(写真撮影のために最初の300mだけ歩いて、ソッコーUターン)
 まあ、実行委員ってことで、みなさまに参加して欲しいってのが本音でした。とはいえ、「参加することが正義だ!」つー中心教義があるようなサイトにウチがなるのもヤでした。ワタシ自身がパレードについては複雑な思いを抱いていましたから。
 でもでも、何でワタシがパレード実行委員をやったかといえば、パレードがどーしたって業界最大イベントである事実はゆるぎないからです。パレードについてあーじゃこーじゃと世の片隅で吠えてもパレードはなくなりません。だったら、乗っかってワタシが思うところの「一番お得」な姿にパレードを近づけるのがいいんではないか、と。 実際、パレード効果はすんごいです。「実行委員」の肩書きでいろんなことができます。プロのイラストレーターもタダで描いてくれるし、ミニコミが喜んでスペースを割いてくれるし、ボランティアさんも言う通りに動いてくれます。「ワタシってスゲエ?」って思い込みそう。これで、昔っからホソボソとミニコミや個人サイトで文章書いたりする零細活動をしてなければ、ウッカリ勘違いしそうなほどです。ちなみにスゲエのはパレードであって、委員ではありません。チーン。
 正直、途中で怖くなった。コミュニティのあちこちが協力体制に入っていくので、「パレードファシズム」に荷担してしまっているのではないかと空恐ろしくなりました。ホントにコミュニティのためになるムーブメントなのか何度も自省しました。ちゅーても、「パレードはハッピー!」とかって対外的には言ってましたが。てへ、二枚舌。 今後、とんでもない事件でも起こらない限りパレードは膨張傾向を続けていくだろう。世の流れがそれを望んでいる。ただ、パレード的なものとそうでないものとの溝がどのように変化してゆくか、ワタシはそれが気になる。
 とどのつまり、ワタシは「パレード的なもの」には与するのだが、「パレードそのもの」には乗り切れない、んである。(2001.9.25)

 ワタシ、日本で初めてと言われるパレードにも参加してたんですよ。国際ビアン連盟というグループのパフォーマンスのお手伝いとして。先導のフロート(というかバンに乗って曲が変わるごとに小道具のフラッグやセンスを渡したりキッカケ出したりする。Nさんと一緒にやってたんですよ。こういう細かい事柄も注釈しないと意味が分からないほど時間は経ちましたね。2001年のころは注釈も何もなくても自明のことだったのですが。

 再録のエッセイですが、今読み返すと実行委員までやっておいてこの冷めっぷり。わりと昔のレズビアンの参加者はこういう保留を置いた感覚を共有していた気がします。「私たちのお祭りだけど、私のお祭りじゃない」というか。

 世代的な隔たりを説明するのってホントに難しいですね。この頃関わってた人たちはあんまり、というより全然キラキラしてなかったし、ほこりっぽくて汗臭かった。映画祭のスタッフの方がはるかにオシャレで人員も確保できていた。どこも一般企業はスポンサーになるわけないし、二丁目もまだまだ冷たかった。そんな時代のパレード前世紀、パレードに参加するのはそうそう(気持ちの上では)簡単なことじゃなかった。ワタシがサングラスを外して参加するようになるのもだいぶ後だったはずです。

 その気持ちはコロナ禍吹き荒れるこの世界でオンラインでパレードに対して賛意を示すものとは異質ではないにせよ、大きく違っていたのだと思います。